蝉時雨だけが聞こえる。
彦根からやや山側に入った集落に、幸子の実家があった。

いつも車を停める空き地があった。
ここは、私有地なのだが、少しの間なら車を停めても誰も何も言わないということだった。

なにわナンバーの日産キューブから降り、回り込んで助手席の美羽をチャイルドシートから抱き上げる。
汗でべったりと髪が額に貼りつき、なんだかぐったりとしている。
幼児用のストロー付き容器には麦茶をいれてやっていて、飲ませているのだが、あまり減っていない。
「熱中症には気を付けて」とあちこちで言われる。
わかっちゃいるのだが、なかなか対応できずにいた。
「さ、美羽ちゃん、いこうや。おばあちゃんが首長うして待ってはるで」
言葉の遅い娘に、おれは極力話しかける。
「クック(くつ)を履こうね」
かわいらしい、ピンクの靴は義母が買ってくれたものだった。

伝い歩きは早かったと思う。
今はもう、自分でしっかり歩いている。
義母は教育者だから、「子供の発達なんて十人十色よ。気にしないこと」と励ましてくれた。

見慣れた門構えの前に来た。
「後藤」と表札が上がっている。
幸子の実家はこのへんでは大きい方だ。
こざっぱりした庭園があり、義母一人では広すぎるくらいだった。
もうツクツクボウシが鳴いている。
呼び鈴を鳴らして来訪を伝えた。

パタパタとスリッパの音が近づき、玄関の引き戸が開けられた。
「いらっしゃい。美羽ちゃん、もうしっかり歩いて…さ、こっちへおいで」
「お世話になります。おかあさん」
「陽介さんも、長旅、ごくろうさま。スイカでも食べて」
久しぶりに会う義母は、もう五十半ばだというのに、十は若く見えた。
やはり学校の先生は、よく動くから、肉体的にも若いのだろう。

薄暗い家の中は、片付いて、床は景色を映すぐらいに磨き上げられていた。
縁側には籐椅子が置かれ、葦簀越しに日射しがやわらげられている。
薄型テレビでは夏の甲子園の熱戦がつけっぱなしになっている。
「今年は近江高校が出てますね」
「そうよ。地元は盛り上がってるわ」
切ったスイカが盆に入れられて運ばれてくる。
「美羽ちゃんは麦茶かなぁ」
「うん」
前に来たことを覚えているのか、美羽は元気になってきた。
「エアコン、入れたんですか?」
「もう、だめね。意地張って、扇風機で過ごしてたけど、今年はもう我慢できなかったわ」
真新しいエアコンが冷風をそよがせている。
年配の人はエアコンの風を嫌がると聞いていた。
義母はそんな歳ではないと思うが、やはり田舎の人なのだろう。
自然の風が一番だと思っているのだった。

「あ、そうそう、お参りしないと」
おれは、仏壇の前ににじりよった。
「美羽、ママに手を合わそう」
義母も、後ろから手をふきふき、やってきた。
「あの、おかあさん、これ、お供えに」
おれが持ってきたブドウを渡した。
「あらあら、ありがとね。陽介さんはご実家には?」
「おかんたちは、盆も店やっとりますし、暮れだけ帰りましたから」
「いいの?お盆休みはいつまでなの?」
「19日の日曜までです」
「長いのねぇ」
「美羽もいるし、社長や仲間が休んでいいって」
「いい会社ねぇ」
おれは、幸子の位牌を見つめてろうそくに火をともし、線香に移して立てた。
そして、美羽を横に座らせ、手を合わせた。
義父さんの位牌も横にあった。
朱の酸漿(ほおずき)が活けてある。

「今年は暑いわね」
「ええ、美羽もあせもができちゃって」
「あとで見てあげようね」
美羽はスイカに夢中だ。家ではなかなかスイカを食べさせてやらないから珍しいのだろう。
「あまいよ」
「美羽ちゃんは、スイカ好き?」
「うん、好きラよ」
「保育園に行ってるの?陽介さん」
「無認可なんですけどね、そういうとこしか入れないんですよ」
「こんなちっちゃい子でも面倒見てもらえるの?」
「まあ、保育士がちゃんといますからね」
「なんか心配ね。あたしが近くにいればお手伝いしてあげられるのにねぇ」
「いいんですよ。もうしばらくしたら、幼稚園ですし」
「まだ二年もあるわよ」
「おばあちゃん、おべんじょ」
「はいはい、ひとりでできるかな」
「できる」
「洋式に変えたからね。大丈夫よね」
そうだったのだ。前は水洗だったが和式だったので、美羽は嫌がったのだった。
「おかあさん、お願いします」
「はいはい。美羽ちゃんこっちいらっしゃい」
二人が奥に消えた。

お昼にそうめんをごちそうになり、二時ごろ、美羽には昼寝をさせた。
「美羽ちゃん、寝ちゃった」
小さい声で義母がおれに伝えた。
何を話すでもなく、おれは、居間のテレビを観ていた。
「陽介さんも、そろそろ再婚を考えてもいいのよ」
「え?」
唐突だったので、おれはどうリアクションをしていいか困った。
「まだ若いんだし、美羽ちゃんを自分の子供のようにかわいがってくれる女の人がいればいいんだけど」
そう、早口で義母は言った。
「実家の親にも言われたんですよ」
「まあ、やっぱり」
「でもね、幸子のことが忘れられないし、美羽をみてると、そんな気は起りませんや」
「そう…そう言ってくれるのは、うれしいんだけどねぇ」

本当は違った。
幸子のことは、日増しに記憶から薄れていっていた。
そして、会社の同僚の岸谷紀子や、西松屋の店員、島本亜希にひそかな恋情を覚えていた。
おれも三十六である。
男盛りだった。
幸子の肉体を思い出して自慰にふけることもあったが、最近は岸谷や亜希の匂いたつような色香を「おかず」にすることがほとんどだった。
幸子は天に召されて、浄化され、もはや性の対象ではなくなりつつあった。
反対に、岸谷紀子の制服のブラウスを突き破りそうな胸、小柄な島本亜希の優しそうな笑顔と声がなまなましく、おれの想像力を掻き立てるのだった。
岸谷は、独身だが男性経験は豊富らしいことを噂で聞いていた。
社内でも彼女と経験したとうそぶく男がいる。
島本亜希は、西松屋でいろいろと育児の相談を受けてくれて、親身になってくれた。
亜希はバツイチで、男の子を一人抱える母子家庭なんだそうだ。
岸谷も亜希も誘えば、おれは行くところまで行けるような気がしていた。
でもその先のビジョンが描けなかった。