リベラルが「自己決定権を尊重する思想」だとするのなら、私はほとんど反論をしない。
それは思想の左右を越えた、保守派でさえも「正しい」とするはずだからだ。

「自由主義」とは、責任ある自由の謳歌である。

圧制に立ち向かう左翼思想でさえ、自由を勝ち取る意味でリベラルだった。
植民地主義からの解放をもくろんだ「大東亜共栄圏」構想も、抑圧からの解放という意味でリベラル的である。


さて「自己決定権」は子供でさえも有している。
しかし往々にして、親は子供に自由を与えない。
リベラリストでさえ、自身の子供には厳しく管理する。
理由は、「子供は自由を履き違えるからだ」という。
その無分別な「自由」は得てして、社会に悪影響を与えるからだ。


すると、自己決定権による自由の獲得あるいは主張は、その主権者の立場によってさまざまなレベルがあるように見える。
教育の行き届かない人々の自由な主張、保守的な思想を持った人々の自由な主張、革新的な思想を持った自由な主張、宗教に立脚した自由な主張…などなどだ。


そうすると、もっとも扱いにくい思想がリベラリズムだと推測できる。もはや一定の規範がない「自由」だからだ。

世界では「超保守」的な思想がひろまりつつある。
これと闘うべき思想が「自由主義(リベラリズム)」なのか、革新思想なのか、宗教なのか混沌としてきた。
民族主義的な保守層が「超保守」を喧伝すると、それは右派だといい、選民思想につながるとされる。
いわゆる「ナチズム」に近しい思想だ。

思想の弱点はダブルスタンダードである。
言っていることと、していることが違うという指摘だ。
中国がそうであるように、日本の政党でもダブルスタンダードが随所にみられる。
「本音と建前」と日本では古くからいわれていて、リベラリストもこの自己矛盾に貶められる。
思想の柔軟性とは、ダブルスタンダードへの答えを用意しているかどうかにかかっている。
たとい「詭弁」といわれようとも、ダブルスタンダードの指摘に対して、うまく言い逃れる算段をしておくことだ。

この時代、思想の左右を指摘するよりも、リベラルか保守かで議論する方がかなっていると思う。
そういう意味で、思想のあらたなフェーズが見えてきた。
リベラリズムこそ、あらゆる反論からダブルスタンダードの指摘に柔軟に対応できる自由な思想であるといえる。
自由なのだから、「それでいいのだ」とつっぱねればよいのだ。

はからずも、安倍晋三とドナルド・トランプの出現によって、保守主義に対して戦える思想がリベラリズムであると明らかになったのだ。