今日の日曜美術館では藤田嗣治(つぐはる)を取り上げていた。
彼は、大正期の洋画家であり、おもにパリで活躍していたが、おりしも世界恐慌で絵で食べていけず、新しい技法を模索するもうまくいかなかった。

五里霧中のまま、藤田は世界を渡り歩き、絵を描いた。
そうしてたどりついたのは、故郷の日本だった。
しかし、日本は日中戦争に突入していたころで、とても絵を描いて生活するというのんきな状況ではない。
藤田の風貌も、おかっぱ頭で耳ピアスのフランス帰りというもので、当時の日本人には受け入れがたいものだった。
それでも藤田の絵のうまさは、つとに聞こえており、折も折だから、戦争画家、従軍画家の道を軍から要請される。
藤田も、絵を描いて暮らせればこの上ない喜びであり、画業を認められる唯一の方法と捉えた。
藤田の傑作「アッツ島玉砕の図」はこうして生まれた。
ドラクロワに「本歌取り」した力作である。
その生々しい屍の山は、藤田特有の写実が生きていた。

藤田は後年、およそ次にように語っていた。
「戦争画を描くのは楽しい」
平和な今日(こんにち)、不謹慎にも取られるような藤田の言葉は、しかし、戦争の真っただ中で生きる画家の言葉として重い。
「楽しい」とは、我々が普通に感じるそれではなく、「絵が描ける、そしてその絵が認められる」という高揚感を含んでいるものではなかろうか?
最近よく言われる「承認願望」が満たされた瞬間なのだろう。

それほど藤田は、フランスでも日本でもこれまで批判されこそすれ、認められることが少なかったようだ。

戦後、藤田の失望は計り知れないほどだった。
軍に利用され、皇軍画家として認められた藤田は、マッカーサーのGHQからは認められなかった。
幸い「戦犯」にはならなかったが、もはや日本で絵筆をとることは困難な状況に陥った。
それよりも、手のひらを返したような日本人の変わりようにあきれ果てたというのが当たっているだろう。
日本人がこぞって、「鬼畜米英」だったのが、あからさまな「マッカーサー崇拝」に変化していたのだから。
藤田は夫人とともにフランスへ渡った。
そして二度と日本の地を踏むことはなかった。
彼は、フランスで日本国籍を捨て、フランス人になった。
このこと自体は小さいことなのに、日本では藤田を非国民扱いで報じられた。
おそらく、当時の日本人にも、アメリカ追従政策に忸怩(じくじ)たる思いがあったに違いない。
そこから、軽々としがらみを捨て去れる藤田に羨望の気持ちがあったから、報道は口汚く藤田を罵ったのだろう。
「逃げられぬ我々は、藤田嗣治のようにはならない」
そう思っている日本人が多かった。

もし今なら、藤田嗣治のような生き様は、活躍の場を世界に求めるグローバルな画家と認められるだろうに。

とはいえ、藤田のフランス生活も困窮していた。
藤田の画風は、変化し、フランス画壇に受け入れられにくくなっていたのだ。
晩年の藤田は、フランスの片田舎に居を構え、夫人とともにつましい生活をおくっていた。
それでも筆を折ることなく、細々とでも画業を続けていたのだった。
亡くなる少し前から、彼はテープレコーダーを利用して声のメッセージを残す仕事に余念がなかった。
そして最後の仕事として小さな礼拝堂を建て、その内部の壁画をフレスコ画で仕上げた。
彼はフランスに帰化したときにキリスト教の洗礼も受けたらしい。
それがために彼の遺した絵には宗教画もたくさんあった。

「私の声を残しておくのも、後の人のためになるかもしれない。絵に声は残らないが魂は残る」
そのような内容の肉声が、オープンリールのテープに記録されていた。