平成という一時代がもうすぐ終わろうとしている。
無理やり終わらせるわけだが…

ふり返って、私の平成はどんなだったろうか?
昭和から平成に元号が変わったときを、私は鮮明に覚えている。
小渕恵三官房長官(当時、故人)が「平成」の揮毫額を手に、新元号を発表したのだった。
昭和64年は、だから、お正月の一週間程度しかなかったと記憶している。
それでも、年賀はがきには昭和64年と印刷されていた。

昭和天皇が老衰で、下血が止まらず危篤状態が続いた昭和63年の暮れだった。
日産「セフィーロ」のCMで井上陽水が「お元気ですかぁ?」とテレビの前のお友達に向かってのんきに言うのが「けしからん」と、自粛の憂き目に遭い「お蔵入り」になったのも記憶にある。
それほど世の中は自粛ムードでピリピリしておったのである。

平成は荘厳な「大喪の礼」で始まり、その後に、当時の明仁親王(皇太子)が「即位の礼」で天皇になられた。
私は、こういうものを見るのが生まれて初めてだった。
日本人のアイデンティティを、まだ二十代の若造だった私は、はからずも感じた出来事だった。
そのとき、私はすでに就職していたが、まだ左翼思想の残滓が私の頭にこびりついていたころである。
そんな折も折に、大喪の礼や即位の礼を経験し、天皇制や国体についてできるかぎり知りたいと思うのは成り行きで、紀伊国屋などで「天皇機関説」やら「皇室典範」やらを漁っていた。

私が学生時代にはまり込んでいた日本共産党の青年部である「民青同盟」では、このような情報には絶対に触れなかった。
「平成」とは、私にとって皇室を身近に感じる時代の始まりだったのかもしれない。

私の人生において、社会人としての時期が、まったく平成時代に重なる。
中堅の化学会社に、研究員として就職した私はバブルを経験し、海外旅行にも行き、実印を作りマンションを買って、車を二台も所有するという、とんでもない生活をしていた。
そんな折、工場で爆発事故が起こり、その半分が機能しなくなったことがあった。
私は自宅待機を命じられたものの、「それでは気の毒」ということなのか、上の計らいで経営者の知り合いの出版社に出向を命じられた。
一年と三か月を、小さな福祉関係の出版社で過ごし、文章の書き方を学んだことは、私にとって無駄にならなかったと思う。
結局、元の会社に戻してもらった私だったが、あらたな研究テーマを与えられず、知財部で特許の検索とか、弁理士との折衝の仕事をさせられた。
思い切って、母校の大学院に戻って高分子の研究をやりたい旨を上司に伝えてみたところ「行ってこい」と快諾を受けたのは、望外だった。
社会人の博士課程挑戦を推奨する学校も、当時は多くあったのだ。
後から聞いたことだが、私の扱いが、社内で微妙だったらしい。
とはいえ、まだまだバブル期でもあり会社としても大学とつながっていることは、むしろ対外的にプラスに働いていたとも思うのだ。

私は晴れて大学に戻り、修士、博士課程と、会社からは給料をもらいながら研究に勤(いそ)しんだ。
修士論文のさいに、留学生のポスドク、ロバートと知り合い、二年ほど深い関係になってしまったが、そのおかげで英語ができるようになった。
研究テーマの区切りがついた彼は、ほどなく、アメリカのフィアンセのもとへ帰って行った。

私はしかし、博士論文がなかなか仕上がらなかった。
実験は失敗続きで、担当教授のM野に泣きついた。
修士から三年が過ぎ、この年に私が博士になるかならないかで、社に栄転できるか、退職するかの瀬戸際だったからだ。
会社が、私を五年近くもよそで食わせていたものだから、社内からも「横山をなんとかしろ」という声が上がっていたらしい。

M野教授は、あろうことか私の体を求めてきた。
私は、打算で妻子ある教授に抱かれた。
「溺れる者は藁をもつかむ」という状況だった私は、あさはかにも体を提供したのだった。
もとより、私は男にだらしがない女だった。
三十を目前に、もう何人の男と同衾しただろう?

その甲斐あってか私の博士論文は、教授によって代筆され、見事に博士号に輝いた。
目的を達成したのちも、教授は私との関係を迫ってくる有様(ありさま)だった。
そしてついにというか、とうとう、教授の奥様に不倫がバレて私は大学を去らねばならなくなってしまった。
まだ社からは召喚命令が出ていなかったので、私は「早く戻してほしい」旨の手紙を社の先輩研究員だった後藤祥雄(さちお)に出した。
私はこれまでのいきさつを祥雄に、つまびらかに手紙にしたためた。
それが博士号取得の代償だということも…

後藤祥雄は、京都教育大を出てその付属小学校の教諭をしていたが、マルファン症候群という持病のせいで心不全を起こし、大手術の末、生還した。
しかし、もはや教諭の仕事を続けることができず、どういう経緯があったのか知らないが、私の勤める化学会社の品質管理課に職を得ていた。
私がここに就職したときには、品質管理課の課長さんだった。
だから、工場のこと、生産のことなどは祥雄から教わったことがほとんどだった。
祥雄の計らいで、社に戻った私は、祥雄に急接近した。
スキーが得意だった彼は、私にスキーを教えてくれ、またお互い、車が好きで意気投合した。
十歳も年上の祥雄だったが、私をかわいがってくれた。

オフィシャルな書面に元号を書く際にも「平成」と書くことに慣れ始めたころ、阪神淡路大震災があり、同じ年には地下鉄サリン事件があった。
なぜ覚えているかというと、私と祥雄はその年の八月に結婚したからだ。

とうにバブルがはじけて、私の勤め先も業績が低迷し、目標達成が毎年できず、上司から、嫌味を言われ、尻を叩かれる毎日になっていった。
私は次第に研究職に魅力を感じなくなっていった。
元来飽きっぽい私は、会社を辞めたいと思い始めていた。
両親が相次いで病死し、家や預金のことで司法書士の世話になったのもこの頃だった。
ひとりっ子だった私には、相続につきそんなに難しいことは生じなかったが、それでも所有権移転登記やら、抵当権抹消登記やら、これまで理系の私には初めてのことがなだれ込んできた。
祥雄と住んでいた私名義のマンションも、この際、売り払って両親の遺した一戸建てに移り住むことにした。
そんなややこしい法律関係を司法書士はサクサクとこなし、私は実印を押すだけという役どころだった。
司法書士ってすごい…
私は、あこがれの目で見ていた。
「なろう。司法書士」
私は突っ走ると、止まらない。四十半ばで、わたしは会社を辞め、退職金をはたいて、司法書士の予備校に通った。
山のような教材が家に来て、夫は「大丈夫か?まあ、応援するよ。やってみ」と声をかけてくれた。
それから六年も受験勉強生活を送るとは思ってもみなかった。
模擬試験では上位に名を連ねることもあったのに、本試験には落ち続け、挫折しか味わわなかった。
六度目の不合格が確実になって、自暴自棄になっていたとき、夫が倒れた。
脳出血だった。
開頭手術が早かったので、命はとりとめたが、寝たきりの状態になり、言語障害が残った。
マルファン症候群の人が心臓手術をすると、人工弁に交換するが、その場合、人工弁で血栓ができないようにワーファリンという血液を固まりにくくする薬を一生飲み続けなければならない。
すると、破れやすい脳の細い血管が、何かの拍子に破れて出血したとき、ワーファリンを服用しているために脳内で大出血を起こし、脳圧が高まって脳を潰す。
だからなるべく早く頭蓋を割って、脳圧を下げなければならないが、うまくいっても脳障害が残るのは避けられないのだった。
私は、はじめて人のために泣いた。
そうして七度目の司法書士試験への挑戦をあきらめた。
私は、職を探した。
おりしもリーマンショックで、世の中が氷河期のようになっていた。
最悪のシナリオが、私を待っていた。
さいわい、住むところは両親が遺してくれた。
ハローワークに通い、少ない求人票をかたっぱしから当たってみた。
そうして、ある小さなベンチャー企業に訪問をすることになった。
もう何度も、よそで冷遇されて、いささかあきらめかけていたころだった。
女で博士などパートタイムにとって足かせにしかならないから伏せていた。
なんでもいいから働きたかった。
預貯金と夫の障害年金だけで生活するのは、とっても不安だった。

ここまで書いて、暴力団琴平会や蒲生譲二、在日の金沢明恵の件はどうだったのか?と疑問に思う向きもあるかもしれない。
ちょっと待ってほしい、あれはフィクションであって、私は一切、そのような方とかかわったことはないのだ。
内外小鉄や森田検索のモデルはいるが、彼らもフィクションだと思ってくれていい。

私は、そのベンチャー企業の面接を受けた。
機械関係の設計や組み立てをしている会社で、いままでの私のスキルはまったく通用しないところに思えた。だからあまり期待はしていなかった。
社長のSは、私の経歴を事細かに尋ねてくる。
「じゃあ、高分子で博士号を?」
「ええ、まあ」
「法律関係の勉強もずいぶんやってこられたんだね」
「はあ、ものになりませんでしたけど」
「特許などはどう?」
「前の会社では少し知財部におりました」
「ほう。旦那さんのお世話も抱えて大変でしょう。うちで働いてみますか?」
「え?いいんですか?」
「うちの会社では、最近、大学関係の仕事も増えているんですよ。理系の先生方の言うことがさっぱりわからない。それに特許権についても知識が乏しい。そんなところに後藤さんのような知財に明るく、大学への顔もきく方が来ていただければ非常にありがたい」
私の表情がぱっと明るくなったと、自分でもわかった。
「ぜひ、使ってください。英語も少しはできますから」
「なるほど、なるほど」
「旦那のことで、休みがちになるかもしれませんが」
「その心配はしなくていいですよ。いつでも休んでください。後藤さんに合った働き方を模索していきましょう」なんて言ってくれる。
こうして、わたしはこの会社に救われたのだった。
そして今も、知財部主任工博として正社員だが、パートのような働き方で今日まで来ている。

平成時代はもうすぐ終わる。
六十定年を目前に、私はどう生きていこうか?