壁の時計が十一時を指そうとしている。
「遅いなぁ、オトンは。またスタンドで飲んで来よるんかな」
おれは、学校の課題をやりながらため息をついた。
父親は鳶職(とびしょく)で、高所作業で稼いでいる。
オカンと離婚して、父親との二人暮らしがもう二年近く続いているのだった。
オカンはほかに男を作って、三年前から別居状態だった。
オトンとの喧嘩が絶えず、おれは何度も仲裁に入って、逆にオカンに引っかかれたり、オトンのゲンコを食らったりして、さんざんな中学時代だった。
おれが県立高校に合格して、両親は正式に別れたのだった。

オカンは勝気で、多治比駅の駅前のスナックでホステスをやっている。
金遣いも荒く、男にだらしなかった。
オトンもそんなオカンの店の客だったわけで、それでおれが生まれて、このぼろアパート「玉藻荘(たまもそう)」で生活し出したらしい。
オトンは酒さえ飲まなければ、いい父親だとおれは思っている。
高校しか出ていないが、世間のことはよく知っていて、おれにあれこれ教えてくれるのだった。
こないだも、「達雄、これからはソーラーやで」と唐突に、太陽光発電について一席ぶった。
鳶の間(あいだ)でも太陽電池「ソーラーパネル」の設置の仕事が増えてきているんだそうだ。
まだまだ高価なものなので、お金持ちしか取り付けないらしいが、ことしだけでも三十件近く取りつけたと言っていった。
おれも県立鳥飼工業高校の電気科の学生なので、オトンの話には興味があった。
こうやって高校に遣らせてもらっているのも、飲んだくれのオトンのおかげなのだった。
「それにしても…」
おれは、スーパー神楽(かぐら)で買ってきた総菜で夕飯にし、オトンの分も分けておいたが、無駄になりそうだった。
ふと、空き室のはずの隣に人の気配がした。
おれたち親子の部屋は玉藻荘の最も西の端である。
その隣室はもう何年も空きのままだった。
「どんな人が入ってくるんやろ。やかましい人やったら嫌やな」
おれは一人ブツブツ言っていた。
電気工学実験の変圧の課題を終えて、おれは寝間を敷いた。
もうその頃にはとなりの物音も静まっていた。
明日の用意をカバンに詰めて、よれよれの長く洗濯していないパジャマに着替えて、歯を磨くために台所の流しの前に行く。いつもの日課だった。
すると、がたがたと戸をこするような音がし、オトンが入ってきた。
「おう、お父さまのお帰りや。達雄、水をいっぱいくれるけ」
「また、飲んできたんかいな。しゃあないな」
「なにを!おれの金で飲んどるんや、がたがたぬかすな。多美子みたいに」
多美子とはオカンのことである。
おれは逆らわずに、コップに水を蛇口から汲んで、玄関のオトンに渡す。
んぐ、んぐ、んぐ
「もう一杯!」
黙って従うしかなかった。もう一杯を渡すと、自分の歯磨きをすることにした。
オトンは、コップを流し台に置くと、よたよたと奥の間に歩いて行った。
この部屋は半畳ほどの玄関にすぐ台所がくっついており、その奥に六畳一間と、さらに奥に汲み取り式の便所がついていた。
風呂はない。
風呂は「多治比温泉」というここから歩いて三分ほど離れた場所にある銭湯に行くのだった。
温泉と銘打っているが、この街に温泉は出ない。

オトンは便所に入ったらしく、静かになった。
「うわ、もうこんな時間やんけ」
日付が変わっていた。
あした、朝の八時半に文化祭の打ち合わせがクラスであるのだった。
「寝よ、寝よ。オトン、おれもう寝るで」
「おう」
便所の中から、嗄(かれ)れた低い声がした。