壊れそうな折り畳み傘をさして、学校帰りの道を、おれはとぼとぼと歩いていた。
「傘もささずに原宿、思い出語って赤坂」などと歌いながら玉藻荘の前に来る。

アパートの赤黒いドアの前に来てみると、小さなメモが貼ってあった。
傘をたたんで、壁に立てかけながら読んだ。
「おとなりにひっこして来ました、宮本です。ごあいさつにうかがいましたがお留守でしたので、またうかがいます」
と、あった。
この字は、女の人のようだった。
おれはセロハンテープを丁寧にはがして、その紙を学生服のポケットにしまうと、その手で鍵を出して室内に入った。

「どんなひとやろ」
おれは制服を脱ぎながらつぶやいた。
十四型のテレビをつけ、しばらくぼうっと見ていた。
すると、戸をたたく音がした。
「すみませぇん」
女の声だった。おそらく隣の人だろう。
「はい」
おれは立ち上がり、シャツの裾をズボンの中に押し込んで、玄関に出る。
戸を少し開けると、スーツを着た小柄な女の人が立っていた。そばに幼稚園児くらいの女の子を連れて。
「宮本です。隣に今日引っ越してきました」
「はぁ」
「お家の方とか、いらっしゃいます?」
「あ、いえ、うちは親父と二人暮らしで、その、今は、おれ一人なんです」
「そうですか。すみません。これつまらないものですが、ご挨拶がわりにどうぞ」
「あ、ども。こ、こちらこそ、よろしくです」
おれは菓子折りのようなものを受け取った。
「よろしくおねがいします。この子はひな、娘です。ひなちゃん、ごあいさつなさい」
「こ、こんにちは」その子はそう言って、ぺこりとおじぎをした。
「こんにちは、よろしくね」
「うん」
物おじしない、かわいい子だった。
「じゃあ、失礼しました。お父様にもよろしくお伝えくださいね。ひな、行きましょう」
「バイバイ」
「バイバイ」
おれも手を振って応えた。

部屋に戻って一人になると、宮本さんとやらの顏を思い浮かべていた。
育ちのよさそうな、品のいい女性だった。
三十ぐらいだと思うが、四十にはなっていない。
英語の橘(たちばな)里香先生が三十七歳なんだが、あの先生より若いと、おれはみた。
宮本さんのチャコールグレーのスーツ姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。
工業高校には女子学生がほとんどいないので、だれでも女性は美人に見えてしまうのだった。
手にしている菓子折りは、多治比駅前のドイツ菓子店「フランクフルター」の包装紙だった。
おそらくバウムクーヘンかなにかだろう。

菓子箱を食卓にしている座敷机の上に置くと、おれは鞄から今日の文化祭の打合せ資料のルーズリーフを取り出した。
電気科のA、Bの二(ふた)クラスで「電気と未来」のテーマで展示会をし、模擬店で自作の電気たこ焼き器で、たこ焼きを焼いて売る計画を立てている。
このたこ焼き器は、単に電熱で焼くだけでなく「返し」も電動で動く優れものだった。
串のついたパルスモーターをパソコンで制御するのだった。
情報処理科の協力も得て、共同開発したものだった。
今日の昼に学生食堂で試作機の披露があったが、あまりの雑な動きで皆の失笑を買っていた。
「これでは、無理やで。間に合わんぞ」
「鉄板はできとんのに、もう人でやろか」
「それやったら、そこらへんのたこ焼き屋と変わらんがな。なあ」
「中島、おまえ、この機械の中に入って、たこ焼きひっくり返せ」
みんなは、どっと笑った。
中島裕司はこの「返し制御」のプログラムをつくっている情報処理科の二年生だった。
申し訳なさそうな顔で中島は、
「なんとか間に合わしますから」と言うのが精いっぱいだった。

そんなことがあった、今日一日だった。
数学の小テストが明後日(あさって)に迫っていて、おれは教科書を座敷机に広げた。
おれは学習参考書なるものを持っていない。
小遣いも月二千円程度では、昼飯にすべて消えてしまう。
わからないことがあると、先生に訊くのが一番安上がりだった。
ただ、同級生でそんなことをしている者はほぼいない。
だから、おれが数学の先生と話し込んでいると変人扱いされてしまうのだった。
「小縣(おがた)、お前、ようガクブチのところに、質問行っとるね」
と、嫌味たらしく、同じクラスの小西が言うのだ。
ガクブチとは、数学の安藤先生のあだ名である。
まあ、先生は、たいそう四角い顔をしておられるので、先輩たちから伝わるあだ名だった。

数列の問題が、おれにとって弱点なのだった。
微積分はわりとできた方だったので、数列でつまずくとは不覚だった。
工業化学科には女子が十人ほどいるのだが、そのなかに山本純子という眼鏡の似合う子がいる。
おれはその子のことが気になっていた。
「そうだ、隣の人、山本に似ているよな」
おれはすぐに気が散って、別のことを考えてしまっていた。
もう六時で外は暗くなり始めていた。
家の中も電灯を点けないと本が読めないくらいに、夜のとばりが下りていた。
蛍光灯を点けると、また玄関をノックする音が聞こえた。
「すいませぇん」
「はいはい」
おれがドアを開けると、宮本さんがお鍋をもって立っている。
カレーの香りがついてきた。
「もし晩御飯の支度がまだだったら、カレーを作ったので、召し上がってくださらない?」
「えーっ、ほんとですか?あ、飯を炊くのを忘れてた」
「じゃ、ごはんも持ってきますわ」
「そりゃ、いけないです。そんなことしてもらっちゃ」
「こどもは遠慮しないの」
そう言って、おれに鍋を持たせると、隣に戻っていった。
子供扱いされたが、不思議に腹が立たなかった。
おれは、逃げたオカンのことを、思い出していた。
「オカンも、やさしい時があったよな…オカンのカレーはうまかった」
おれは、部屋に引っ込んで、台所のレンジの上に宮本さんのホーロー鍋を置いた。
香ばしいカレーの香りが、むさくるしい部屋を華やかにした。
しばらくして、またノックの音がした。
「これで足りるかなぁ」
大きめのタッパーウェアに白飯が入っていて、一人なら十分だった。
「おれだけやし、オトンは飲んで帰ってくるから、家で食わないんで十分です」
「そう?よかった。足りなかったら、自分で炊いてね」
「ありがとうございます。こんなにしてもらって。うわ、うまそう」
おれは鍋の蓋を取って中を覗いた。
「お味はどうかわからないけど。じゃ、おじゃましました。お鍋はそのまま返してくれていいわ。ドアの外の消火器のところにでも置いといて」
「はあ、じゃ、ゴチになります」
「どうぞぉ」
そう言って、宮本さんは出て行ってしまった。
「なんだか、いいひとだなぁ」
旦那さんはどんな人なんだろうか?
「嫁にもらうなら、ああいう人にしないとな」
山本純子の顔がふと浮かんだ。