数学の小テストは散々だった。
途中まで計算して、間違いに気づき、直していたら時間が来てしまった。
階差数列に気づくのが遅かったのだ。

おれは学校のすぐそばを流れる大戸川(おおとがわ)の土手を秋風に吹かれて歩いていた。
鳥飼大橋の真っ白な斜張が夕日に照らされて茜色だ。
すべての景色が赤みを帯びていた。
ふり返れば、夕日の中に鳥飼工業高校の白亜の校舎も夕日に染まっていた。
「あしたは晴れるな」

カレーのホーロー鍋を一応洗って返すために表に出しに行ったとき、宮本さんの表札を見たが、「宮本規子・陽菜」としか書かれておらず、旦那さんらしき名前がなかった。
「規子」は何と読むのだろう?
「陽菜」は「ひな」と宮本さんが呼んでいたので、読み方がわかった。
「たぶん、うちみたいに別れたんだろうな」
おれは、勝手にそう思っていたが、中(あた)らずと雖(いえど)も遠からずだろう。
おれは土手の階段を下りて行って、県道に出た。
河口に向かう大型貨物で、交通量の多い道路だった。
ゆえに排ガスで鼻の穴まで黒くなりそうだった。
蟹江産業という建築資材の会社の前を通り、コインランドリーの間の路地を入ると、もう玉藻荘が見えてくる。
オトンが車を停めている月極(つきぎめ)駐車場の「和田モータープール」を横目に見て、玉藻荘の前に出た。
「オトン、帰ってるんか」
見慣れた、黒のポンコツ、ダイハツ「ミラ」が駐車場に停まっていた。
後ろの座席は、仕事の物置状態で、助手席にかろうじて人が乗れる。
だいぶ前から、右の後ろが大きくへこんでいた。

部屋に入ると、オトンが珍しく洗濯ものを干している。
「おう、帰ったか」
「早かったんやな」
「もう月末やろ、仕事が決着してんねや」
「ふうん。洗濯、おれがしとくのに」
「お前ばっかしに、やらしてたら悪いやんけ。へへへ」
ほんまに酒が入っていないと、いい父親なんだがな。
「めし、どうしよ」
「気にすんな。給金もろたから、焼き肉でも食いに出よ」
「ええの?」
内心「やったぁ」と思った。
ピンチに靴下を干しながら、オトンが金歯を見せてにやりと笑う。
ここ数年で、オトンも更けた。
五十そこそこやのに、目じりや額に深いしわが増えた。

おれら二人は歩いて多治比駅前の商店街「多治比銀座」を目指した。
多治比銀座の外れが、ちょっとした歓楽街で、オカンがホステスやってるスナックなんかが田んぼに向かって並んでいたが、おれらはそっちには行かない。
オカンに会いたくないからだ。
いや、ひょっとしたら、もうこの街には、いないかもしれなかった。
「でんすけに行くか」
「焼き肉やったら、そこしかないやん」
「天壇とかもあるで」
「オトン、そんなええとこやめとこ。でんすけやったら天壇の半額で、ようさん(たくさん)食えるし」
「そやな」
そんな会話をしながら、商店街を歩く。
「達雄、となりの親子、あれ、旦那はおらんのか?」
「そうなんちゃう?」
「えらい、できた人やな。挨拶もちゃんとしよるし」
「そやろ。あんなぼろアパートになんで来はったんやろなぁ」
「いろいろ事情があんねんて」
夕方の帰宅時間に重なって、駅からこっちに来る人で混雑してきた。
「でんすけ」の赤いちょうちんが見えてきた。
店に入ると、肉の焼ける煙で向こうが見えない。
ここは炭火で焼く、本格派なのだそうだ。
「いらっしゃい!」
鉢巻をした主人らしき人が作務衣(さむえ)に襷(たすき)という、いなせないでたちで迎えてくれる。
オトンは瓶ビールを手酌し、おれはごはんを「もみだれハラミ」を焼きながら頬張る。
「ミノはどうや?イカみたいでうまいで」
「うん、もらう」
「もうじきやな、お前と酒が飲めるのも」
と、目を細めておれを見る。
「ああ、あと三年」
「学校(がっこ)出たら、お前、どうすんね」
「まだ決めてへん」
「やっぱ、大学とか行きたいか?」
「むりむり。工業高校やで、おれ」
「ほな就職け」
「そうなるなぁ」おれは、焼き野菜を焦げないように並べ替えながら答える。
「青野はんとこ、どうや?手ぇが足りひん言うて、会うたんびに言いよんね」
青野とは、地元の青野電気工業という電設会社で、オトンもソーラーの仕事をそこからもらっている。
「そやなぁ。あそこは学校からも推薦してくれるみたいや」
「専務の青野猛(たける)は同級やから、おれが口、利いたるがな」
オトンも焼き肉をほおばりながら、もぐもぐ言う。
「また、その時に頼むわ。ほんま、おれ、いま文化祭のことで頭がいっぱいやねん」
「しゃあない学生さんやな。はっはっはっ」
グラス片手に豪快に笑い飛ばした。
クラスの文化祭委員を務めているので、重圧があるのだ。
「で、何やんねん?文化祭」
「電気と未来っちゅうテーマで展示会やんね」
「なんじゃそりゃ。電力会社の宣伝みたいやな」
「オトンのやってるソーラーとか風力とか発電のことをわかりやすく、小さな実験装置を作って見せるんや」
「ほんまに電力会社の回しもんやな」
「ガソリンは枯渇しても、人類は何とかして電気を起こすやろ。電気は不滅やねん」
「大きくでたな。頼もしいこと言うやんけ。もっと食え」
「ちゃかさんといて」
「ま、時間あったら見に行ったるわい」
「ああ、来てや。ぜったいおもろいから」
うんうんとうなずきながら、オトンは楽しそうだった。

そうや、宮本さんも誘ってみよ…