うちには電話がない。
オトンが「そんなもんあらへんかったら、あらへんでええ」と頑固にも電話を引かないのだった。
困るのはおれのほうだ。
学校との連絡やら、少ない友達とのやりとりを県道沿いのローソンまでいってカード電話でこちらから掛けるしかない。
だから、まあ、友達も少ないのだけれど…

ただ…うちには「アマチュア無線」というものがあった。
去年、オトンが鳶(とび)仲間に勧められて、講習会に行って免許を取ったのだ。
「ひさしぶりに、ベンキョーしたで。お前も取れ」
オトンに免許が取れて、おれにできないはずがないと、妙に発奮して、去年の暮にオトンと同じ方法で講習会に出て免許を取得した。
アパートの物干し場から「アローライン」という小さなアンテナを竿に括り付けて、大家に内緒で無線局を設置したのだ。
オトンは、ダイハツ「ミラ」に鳶仲間から中古で譲り受けた2m(144MHz)の車載用トランシーバーをつけて仲間同士連絡を取り合っている。
そして、おれも、中古の似たような無線機を通販で買ってもらい安定化電源につないで家からオトンと連絡用に使っている。
すると、クラスにも電気科だけあって、四人もアマチュア無線の資格を持っている仲間がいて、すぐに友達になった。
つまり、おれの少ない友人というのは彼らのことである。
ケータイ電話も持っていないおれにとって、この小さな無線機は唯一のコミュニケーションツールだった。
この時代、ピッチやケータイに圧されて、アマチュア無線はすたれつつあった。
ついこの間までポケベルが全盛だったが、今や「iモード」とかインターネットなんてのが流行っているらしいけれど、おれには関係のない話だった。
この先どんな世の中になるのか皆目見当がつかなかったし、まして世間知らずの高校生のおれなんかにわかるはずがなかった。

今日も学校から玉藻荘に帰って来たが、とっぷりと日が暮れてしまっていて、街灯で自分の影が道路に落とされるようになった。
十月も残すところ、あと一週間とちょっとだった。

玉藻荘のほうから女の子の歌う声が聞こえてくる。
陽菜(ひな)ちゃんだ。
寒くなってきているのに、自分の部屋のドアの前でしゃがんで歌っている。
「手のひらを太陽に」という歌だった。
「ひーなちゃん」
おれは腰を落として呼びかけた。
「あ、隣のお兄ちゃん」
「どうしたんや?おかあはんは、留守か?」
「うん。お仕事からまだやねん」
「おかあはん、どこに仕事行ってるんや?」
「スーパーかぐら」
「え、すぐそこやん」
「うん。ひちじ(七時)までお仕事やねん」
「まだ三十分はあるなぁ。よっしゃおれんちで待ってよ。こんなとこにいたら風邪ひくわ」
「うん」
おれは、陽菜ちゃんを伴って、自分の部屋を開けて入った。
オトンは今日も九時回らんと帰ってこないだろう。
外で飯食って、風呂屋に寄って帰ってきてそのまま、バタンキューになるに決まってる。
「おにいちゃん、おっちゃんと二人っきりなん?」
「そうやで、ひなちゃんとこも、おかあはんと二人っきりやろ?おんなじや」
「おにいちゃんのママは?」
「ママっていうようなガラやないけど、よそにおる」
「なんで帰ってきいひんの?」
「なんでかねぇ。もうここが嫌にならはったんや。そやから、おいら捨てて出て行ってしもたんや」
おれは、ばかばかしいが、そう言うしかなかった。
陽菜ちゃんは、納得したのか、それ以上はもう訊いてこなかった。
「ひなちゃんは、幼稚園に行ってるんか?」
「うん、さくら幼稚園」
大戸川の堤防沿いにある小さな幼稚園だった。おれもそこの卒園生だった。
「おれと一緒やな」
「おにいちゃんも、さくら幼稚園に行ってたん?」「そやでぇ」「なにせんせ?」
「せんせは、もうひなちゃんのせんせとは多分ちがうと思うよ。もう昔の話やからね」
「そっかぁ。あたしのせんせは、おちあいせんせ。おちあいまみせんせ」
「若いせんせなんやろなぁ」
知らない名前だった。
「めっちゃ、びじんで、お歌が上手」
「へえ、そら、いっぺん会ってみたいね」
おれも、幼稚園児におあいそを言える人間に成長していた。

「ひなぁ、ひなぁ、どこいったん?」
外で、宮本さんの声がした。
「ひなちゃん、おかあはんが呼んではるよ、いこ」
「うん」
陽菜ちゃんが、自分の靴をせわしく履いて、ドアを押し開けた。
「ひな、あんた、そこにいたの?」
「すんません、宮本さん、ひなちゃんが、おもてで一人ぼっちでいてたから、うちにおいでって誘たんです」
「こちらこそ、すんません。夕飯の支度もせなあかんのに、小縣さん、ありがとうございました。ほら、ひなもお礼を言いなさい」
「ありがと、おにいちゃん」
「ええねん、おれもいま帰ってきたとこやし、ひなちゃんとお話でけて、楽しかったわ」
「あ、そうだ。小縣さん、お惣菜、スーパーで安く分けてもらってきたの。お礼に召し上がって」
そういうと、スーパー神楽(かぐら)のレジ袋から酢豚と回鍋肉のパック詰めを渡してくれた。
「うれしいけど、これ、宮本さんの晩のオカズちゃいますの?悪いし」
「ええのよ。まだあるの。ひなには餃子を暖めてあげる。肉団子もあるわ」
「あたし、ミートボール好きぃ」
「すんません。ほんまに。もろてばっかりで」
「子供は遠慮しないの」
「こどもて…」
「あ、ごめんね。立派な大人に向かって、あたしったら…」
「え、いいです。おれ、こどもです。まだまだ。ひなちゃんのほうがよっぽどしっかりしてる。お話してようわかりました」
「何をお話してたのかしらね。この子はようしゃべるから、もう大変なの」
「いや、楽しかったですわ」
「じゃあ、ひな、お兄ちゃんにバイバイって」
「バイバイ」
「バイバイ」
そうしてそれぞれの我が家に入っていった。
おれは思わぬ、食べ物にありついたので、冷ご飯を冷蔵庫から出すと、汚い電子レンジでチンした。
座敷机にパックをひろげて、夕飯にした。
「うんまい。ここの酢豚いけるなぁ。ほいこーろも、うんまいわぁ」
おれは一人の食事を楽しんだ。
つけっぱなしの無線機から入感があった。
オトンと決めたチャンネル(周波数)に合わせてある。
「おい、達夫、聞いてるけ?」
おれは膝で歩いて、無線機の前に来て、マイクを取った。
「了解。聞いてるよ」
「ちょっと、今日は帰られん。川瀬までこれから行かんならん。どうぞ」
「かわせぇ?日本海のほうやんな。仕事か?」
「もちろん仕事や。原発の仕事」
やっぱり川瀬原発のことやった。軽水炉を二基、建設中なのだった。
「了解しました。気を付けて行ってください。どうぞ」
「明後日の夕方には帰る予定や。それまでよろしく。どーぞ」
「了解。ほな、いまからチャージ(めし)なんで、QRT(閉局)するで」
「了解。当局もキューアールトンカチや。どぞ」
「・・・・」

「あーあ、冷めてしもたがな」
おれは、酢豚と回鍋肉をレンジで暖めなおした。