友人たちの間ではピッチ(PHS)というケータイ電話が流行り出していたが、おおかたの学生はポケベルで我慢していた。
なんでも、ピッチはつながりにくいとか、基地局がこの辺では少ないとかがネックになって、ポケベルが離せないのだそうだ。
しかしおれは、そういう流行から取り残されて、一人玉藻荘で、土曜日だというのに、ふて寝していた。
アマチュア無線のトランシーバは、いつもつけっぱなしで、いわゆる「たぬき」の状態だった。
「たぬき」とはワッチだけしていることで「たぬき寝入り」から来ている言葉だろう。
オトンは、川瀬原発の二号機建設現場に鳶(とび)の仕事で行ってしまった。
とても2mバンドでは電波の届かない場所だから、もう連絡を取るすべがない。
「やっぱ、電話いるよなぁ」
おれは、寝ながら、そうつぶやいた。
明日から始まる『特命リサーチ200X』と『発掘あるある大事典』の番宣が新聞に載っていた。
「おもろそうやな…」
日曜日にはオトンも帰ってくることになっていた。

工業化学科の山本純子をデートに誘えたらええなあ…ふとそんなことを考えていた。
純子の声が聞こえたら、おれはいつも声のする方に彼女の姿を探す。
よく通る、涼やかな声。
決して大きな声ではないのに、学食などの喧騒の中でも純子の声は、おれの耳に届いた。
眼鏡の奥のうるんだような目と、色白でほんのり赤みのさした頬、ぷっくりとした下唇はいつも濡れたよう…
目をつむっていると、そのディテールがまざまざと見えてくる。
制服のブレザーを押し上げている、豊かそうな胸…
髪はつややかで、逆光ですこし栗色を帯びているように見えるが、染めてはいない。
「あいつ、つき合ってる男いるんかな。いるかもな。いやいや、なかなか近寄りがたいもんな」
学科が違うから、成績やら、授業中の様子を知ることはできないが、白衣を着て廊下をあるいている純子とすれ違うと、もうたまらん。
いい匂いもするし、背は女の子にしては高く、おれと変わらないように見える。

おれは一人であることをいいことに、パンツを下ろし、ちんこをさらした。
右手で皮を剥いて、にぎる。
「じゅんこ…じゅんちゃん、じゅん」
いろいろに呼びながら、気持ちを高めていった。
すると、じわじわとちんこに血が送られ、硬くなるのが手に感じられる。
握る力をつよくして上下にしごく。
想像の中で、純子はしだいに宮本さんにすり替わっていった。
「ああ、宮本さん…下の名前は、なんて読むんやろ?」
「規子」の読み方が、いまだにわからなかった。
「きこ…きこさん」
なんでもよかった。
おれは宮本さんを裸に剥いて、抱き付いている想像をした。
体は純子だった。
「じゅんこぉ」(どっちやねん)

おびただしい、精液をまき散らして、おれは肩で息をしていた。
「となりに聞こえたんちゃうか…」
後始末をしながら、おれは危惧した。
「まさかな、こんな時間やから、パートで神楽に行ってはるわ」
そう独り言を言った。自分を安心させるためだった。
こんな恥ずかしいところを聞かれたりしたら、えらいことである。

一回出すと、落ち着いた。
「ああ、しんどかった。心臓麻痺起こしてまうわ。こんなとこで孤独死してたら、しゃれにならへんで」
おれは、独り言が多い人間だった。
「どっか、行こうかな。言うてもなぁ」

コン、コン
戸を叩く音がした。
「あ、はい」
おれは起き上がって、玄関に向かった。
「宮本です」
「え?」
おれは、さっきのことがあるので、少なからず驚き、あわててドアを開ける。
「こんにちは、おひとり?」
「ええ、まあ」
「お父さんはお仕事?」
「日本海側の現場に、泊りで行ってます」
「そう。あのこれ、おみかんなんだけど召し上がる?」
「もらってばかりで、すみません。どうぞ、入ってください」
「悪いわ。お休み中なのに」
「汚いですしね」
「お掃除、てつだいましょうか?」
「そんな、いいです」
「じゃあ、わたしのところにこない?コーヒーでもごちそうするわ」
「はあ」
なんか変…宮本さん。
おれは、宮本さんの雰囲気に呑まれて、後ろについて行った。

宮本さんの部屋は、引っ越ししたてということもあるのだろうが、家財道具がタンス一個と、衣装ケースが四つ、壁際に積んであるだけで、他は何にもなかった。
キッチンには、電子レンジを載せた小さな冷蔵庫があった。
「ひなちゃんは、幼稚園?」
「もうすぐ帰ってくるわ。そこらへんに座ってて」
タンスの上に目覚まし時計があって午前十時半を指していた。
幼稚園は土曜日もあるらしい。
「宮本さんは、仕事は休み?」
台所でコーヒーの支度をしている宮本さんの後姿に尋ねた。
「うん、土日は陽菜もいるから、あたし平日だけなの」
お湯が沸く間、流しに背を向けて宮本さんがこっちを見てる。
何か言いたげだった。かすかに笑みを浮かべて…
「ここの壁って薄いのね。驚いちゃった」
「は?」おれは、どきっとした。
聞かれたか…覗けるような穴はないよな…おれはうちの方の壁を見つめた。
「あたしの名前、キコじゃなくってノリコっていうの」
おれは、頭を殴られたように、気を失いそうになった。
「あ、あはは、そうなんや。なんでそんなこと言わはるのかなぁ」
「べつに。聞こえたから」
そういうと、宮本さんは沸いたヤカンの方に振り返ってしまった。
香しい、レギュラーコーヒーの香りが部屋を満たした。
が、しかし、コーヒーの味など、わかるはずがない。
「おとなしいのね」
「なにを話していいやら…工業高校だもんで、女の子が少ないから」
とかなんとか、自分でも何を言っているのかわかりゃしない。
「緊張してるんだ。かわいいわね。でも、なんであたしの名前を呼んでいたのかしら、それからジュンコって子の名前も」
「いやあ、宮本さんの名前、なんて読むのかなぁって、難しい字やから。おれ独り言が多いんや、つまりは」
おれは背中にびっしょりと汗をかいていた。
「おもしろい子。そういうの好きよ」
「あはぁ」
もう、のどがカラカラだった。おれはコーヒーを飲んだが熱かったので吹いてしまった。
「うわっ、ごめんなさい。こぼしてもた」
「はいこれつかって。火傷しなかった?」
あわてて、宮本さんがタオルを貸してくれた。

「ただいまぁ!」
陽菜ちゃんが帰ってきた。
「あ、お兄ちゃん」
「ひーなちゃん。こんにちは。おじゃましてます」
「あそぼ、お兄ちゃん」
「いやぁ、まいったな」
「お昼、ないんでしょ。あたしたちと一緒に食べようよ」
「そうですかぁ。わるいなぁ。おれ、こどもやし遠慮しませんで」
陽菜ちゃんが帰ってきたので、宮本さんとの二人っきりが解消され、おれに冗談を言う余裕が生まれた。
「そう、それでいいのよ。じゃ、何にしよっか」
「ひなは、ホットケーキ」
「小縣君もそれでいい?」
「いいです。ホットケーキなんか何年ぶりやろ」
「おおげさねぇ」
「男ばっかしで、ホットケーキなんかしませんもん」
「そうよねぇ。ま、そこでひなの相手をしてやってて」
「はぁい」

宮本規子と宮本陽菜、そしておれ、奇妙な取り合わせの昼ご飯だった。