輪廻(りんね)とは仏教の言葉だが、私は物質の輪廻は知覚できるけれども、精神の輪廻には懐疑的だ。

宗教法人「転生教」総裁としていささか不穏当な物言いだが、私はいまだに考えを統一できていない。
だいたい「生命」とか「命」という存在、「魂」や「心」と言い換えてもいいが、「死んでいる者にはないもの」と人々が考えている存在は、いったい、具体的な姿としてとらえられるものなのだろうか?
「感じる」ことができるという人もいる。
そうでなければ、絵を見て感動しないし、悲しい話を聞いて、涙を誘われることもないではないか。
情動はすなわち人々の心の動態そのものであり、知覚できるではないか!

すると、生命ある者は情動があるので、それが間接的には「命の存在」を示すのだと言えなくもない。
中島みゆきは、「命」の名を「心」と呼んだ。
なるほどと、思わせられた。
しかしそれで私の疑問が解消されたわけではない。
それは「上手い言い換え」であって、私への解答ではなかったのだ。

生きている者はいずれ死ぬ。
死んだ肉体は腐敗し、微生物によって分解され利用され、元素や分子にまで戻ってからまた次の生命につながっていく。
肉体から離脱したと人々が考える「魂」の行方(ゆくえ)はどうなるのか?
それを考えることが宗教なのだと言っても言い過ぎではない。
魂には物質的な側面はないと私は考える。
つまり重さや、温度や、空間を占める割合などというものは概念しなくてもいいのだと。
だから、どんな場所に詰め込んでも窮屈にはならないし、瞬時に空間を移動しても不思議でない。
それが生前の人の心が変化したものなのだ、いや、その人格そのものが魂なのだと思うことによって、心の平安を取り戻し、死後の不安を取り除く唯一の考え方なのだと私は勝手に思っている。
実際は生きている私たちの脳が作り出した「箱庭」にすぎない天国と言う楽園。
そこに死んだ者の魂は集い、安寧に暮らしてくれると信じたいのだ。
いずれ私もそこに行くからと…

仏教には「方便」という考え方がある。
「嘘も方便」の「方便」である。
「方便」は一種の「アウフヘーベン(止揚)」である。
※方便品(ほうべんほん)は大乗と小乗の対立を止揚統一を図る考え方

方便の用法は注意を要するが、答えの出しにくい対立概念において、方便は一応の着地点を示してくれる。
「色」と「空」の対立概念がそうだ。
仏教ではそれを「対立」とはせずに「並立」で考えてきた。
大日如来と不動明王や金剛界と胎蔵界というふうに、「表裏一体」という考え方で切り抜けて矛盾を克服してきたといっていい。

いよいよ混沌の世界の到来である。
末法の世の到来である。
私たちは、その中で自己を見失わずに、泳ぎ切ることができるかどうかを試されている。
流れに逆らうばかりが正しいやり方ではない。
流れに乗るということも、ひとつのやり方だ。
転生教に集え、若者よ!

君たちの入信を心から待っている。
(転生教総裁 横山尚子)