『チコちゃんに叱られる』で「鏡に映った姿が左右逆になるが、上下は逆にならないのはなぜ?」という質問があった。

この疑問はギリシャ時代からあるらしく、私はそのような疑問を持ったことがない凡人なので、少なからず驚いた。
確かにこの問題は考えれば考えるほど答えることができなくなりそうだ。
いまだに、世間ではこの疑問への明快な答えがないと言われている。

私は、明快な答えがあるものと期待していたので、そこんところも驚きだった。

鏡像関係というものは、鏡を手にした時から私もあなたも経験しているのであって、自身が右手を上げた姿を鏡に映せば、その像は「右手を上げた私」であるか「左手を上げている私」と答えるか、およそ半々の人々がどちらかを答える。
右と左の違いは映画『舟を編む』で辞書の編纂において、このことをどう表現するか悩むシーンがあった。
人が南を向いて立ったときに、西側を右とし、東側を左とする…
立った時点で上下は決まる。
こうして自己中心の座標系ができるのだった。
これは「君子南面す」という故事に倣っている。
君子(皇帝)は南を向いて政を行うのであり、都の設計は君子を中心に立てられる。
京都市において右京区は西側、左京区が東側であることもうなずけよう。

すると、鏡像の中の自分が右手を上げていたら、それは鏡像の自分から見て「左」だと頭で変換している人はそう答えるらしく、そうでなく自分の右手は鏡像になっても右手が映っているのだから「右」だと答えるのだ。
穿っていえば、鏡像が左手を上げていると答える人は文系であり、鏡像であろうが、右手に変わりはないと答える人は「理系」であるともいえる。

将棋の棋譜で、自分が先手番だとして、後手番が「5二金右」と指すことがある。
この場合、先手(自分)から見て、向かって左側の金が5二の位置に行く。
各手番の棋士の立場に立って棋譜は決定される。

はたまた化学の世界ではもっとシビアである。
光学異性体の立体構造を記述するのに、D(Dextro)、L(Levo)という表記を使う。
いわゆる旋光性の「右旋性」「左旋性」とは違うことに留意願いたい。
偏光面の旋回(旋光性)の区別は小文字のイタリック体で「」「」と表記するのが習わしである。
Dは右手系、Lは左手系の表記であり、両者はまさしく「鏡像関係(エナンチオマー)」という。
有機化学では絶対に落とせないセクションがこの光学異性体の話だ。
エナンチオマーは別名「対掌体」とも言い、手のひらの左右を重ね合わせるときの、まさにその関係を言い表している。
右親指と左親指が向かい合い、各指がみなそのように向かい合って「合掌」するわけで、すなわち「鏡像」と同じことを言っている。

簡単には一つの炭素原子に共有結合する化学種がそれぞれ全く異なる場合にエナンチオマーが存在する。
たとえば乳酸という分子がそうだ。
中心の炭素原子は四つの手を持ち、そのそれぞれに水素基、メチル基、水酸基、カルボキシル基が共有結合している。
このような分子は、二種類に異性体が考えられ、それぞれは対掌体(鏡像関係)にある。
すなわち、D-乳酸、L‐乳酸の二種類だ。
両者は化学的性質も同じで、物理的にも旋光性以外は性質が全く同じであり、混合していても分離はできない。
※右手・左手系の「D,L」は分子を記述する場合の便宜的なもので、旋光性の左右と一致するとは限らない。ところで、鏡像関係にある光学異性体は、必ず互いに旋光性を示す。これが「光学異性体」と名がつくゆえんである。

生物学的には両者はいくぶん異なる性質を持つかもしれない。
乳酸では知られていないが、他の光学異性体分子の場合、左旋性のみが生体で利用可能であり、右旋性はほとんど利用されないものがある。

数学ではどうだろうか?
ここで「鏡に映った像の上下が逆にならない」という意味が垣間見れるかもしれない。
鏡に映る像は「射影」とか「写像」というものだと数学で習わなかったか?
平面や軸(直線)を介した像は、左右が逆になる「鏡像写像」と左右そのままの「正射影、つまり影」と言うのではなかったか?
二次元空間の場合、平面図形の裏表の区別がないので、たとえば軸対称なら軸の周りの回転による重ね合わせが可能だけど、三次元空間になるとそうはいかない。
だから化学の光学異性体という区別がつくのだった。
上下が逆になる例はピンホールカメラのように点対称の場合だろう。

そうすると平面の鏡面反射の鏡像が、みかけ「左右逆」と見えても、上下が逆になることはないのである。
凹面鏡ならば焦点を生じるので、左右のみならず上下逆転になるはずだ。スプーンの内側に映った自分の顏を見たことがあるだろう?

時間の制限もあるだろうが、『チコちゃんに叱られる』でもそこまで掘り下げてほしかった。
なんせ心理学の先生が答えるのだから、視点が狭きにすぎるのではなかろうか?