修士課程では、自分の研究以外に、学部生の学生実験の手伝いをしなければならない。
どこの大学でも同じかと言うと、そうではないところもあるかもしれないけれど。

私たちは「院生」と呼ばれていた。
有機合成実験の手伝いは多岐にわたる。
学生実験でもこの課程は、かなり学生側も習熟してきているので、レベルも高い…はずなのだが。
「蒸留したメタノールをさらに乾燥させます」
私が、手引書を繰りながら言う。
「乾燥?液体を?」
本間と名札のついた学生が、怪訝そうに聞く。
有機溶剤を抽出溶媒に使うときは、溶質が水への分配も考えられるとき、極力有機溶媒に含まれる水分を除いておかないといけないがそれを「乾燥」と呼んでいる。
特に、メタノールやエタノールなどのアルコール類は蒸留しても、水素結合が水とアルコール類の共沸混合物をつくってしまい、完全な脱水はできないものなのだ。
「本間君は、その様子やと、液体の乾燥のことを知らんな」
「はあ」
横の、佐々木君が「芒硝(ぼうしょう)や芒硝」と、助け船を出す。
「そうね、芒硝、つまり無水硫酸ナトリウムをこの蒸留したメタノールに入れて、ときどき振り混ぜて、最低でも1時間、置きます」
「モレキュラーシーブでもいいんですよね」佐々木君がわたしに笑顔で言う。
「そうよ。よくご存じで。学生実験では簡単な乾燥方法を経験してほしいので、この場合は芒硝でやってね」
すると本間君が、
「横山さん、乾燥した後、芒硝をろ過で除くんですよね。ブフナー漏斗とかで」
「だめよ。ブフナーは吸引瓶と水流ポンプを使うでしょ。どうなる?そんなことしたら」
「えっと、あ、水分が入ってしまう可能性が」
「わかった?普通にろ紙と漏斗ですばやくろ過して分離してください。ろ紙の折り方はわかってますか?」
「はい」
ソックスレー抽出の実験は、有機合成というより天然物化学の分野で活躍する。
こういった抽出法は分析の分野でも大事な手法なので、化学で食べて行こうとする学生にはぜひ覚えてもらいたいものなのだ。

別の班では、ニトロベンゼンの水蒸気蒸留をやろうとしている。
彼らが合成したニトロベンゼンはカスタードクリームのように濁っていた。
どうやらそれが心配な様子だ。
そばを通ると、
「横山さん、このニトベン(ニトロベンゼンを生意気に略してやがる)なんですけど、色が」
加藤というその男子は、首をかしげながら、三角フラスコの中の自分の「作品」が気に入らないらしい。
「とにかく水蒸気蒸留をやってごらんなさい。そうすれば透明になるわ」
「そうなんですかね」
私は、白衣のすそを翻(ひるがえ)しながら、困っている生徒はいないか見回した。

昼休みを挟んでも実験は続くのが、この課程の大変なところなのだ。
学生にとっては一日仕事の曜日になっている。
クロマトグラフや機器分析もここで触ってもらう。
昼休みは、交代で昼食をとるために学生食堂におもむく。
さっきの佐々木君といっしょになった。
かれは福知山から本学に通っているという。
「明智光秀で有名なところね」
「そうですね。みんなそう言います。でも光秀が信長を本能寺で討ったことで謀反者のイメージが強くって」
お互いカツカレーを食べながら、同席して話した。
「あたしも歴史はあんまり。だから明智光秀のこともそれくらいしか知らないわ」
「地元では名君の誉れ高い人物なんですよ」
「へえ、そうなの?」
「福知山と名付けたのも彼で、福知山城城下を整備して、いまの福知山市の基礎を作ったんです」
「お城、あるのね」
「あれは、復元されたものです」
「信長と光秀って仲悪かったの?」
「横山さんは信長って好きですか?」
「いや、まあ、なかなか短気で、他人の言うことを聞かない人だったイメージがあるわね。あんまり好きじゃないわ」
「ぼくも同感です。一方で光秀はインテリだったと思うんです」
「だから、そりが合わなかったんだ」
「最初はそうでもなかったけれど、だんだん近しくしていると鼻につくものがあったんでしょうね」
「決定的な決裂はあったの?」
私も興味が沸いて、いろいろ訊いてみたくなった。
「甲州征伐の戦勝祝いですかね」
「ああ、甲斐の武田を鉄砲隊で撃破したっていう」
「あれは長篠の合戦ですが、それより後の武田征伐のことです。その祝いの席で信長が家康の働きをねぎらってもてなすんですが、光秀が家康の饗応役だったので、そのもてなしの料理を光秀が家康の好物をふんだんに取り入れて料理人に作らせたんです。そのメニューも残っているらしいです」
「へえ、それが何か?」
「その家康に対しての至れり尽くせりの料理が、非常にぜいたくで信長がキレたんです」
「ありゃま。ぜいたくすぎるってこと?」
「日頃、鼻についていた光秀の憎いほどのもてなしが、信長の逆鱗に触れたんでしょうね」
「ふうん…それで光秀は信長に嫌気がさしたんだ。このわからず屋!って」
「それからすぐですよ、信長の寝込みを襲うのは」
カレーを食べ終わって、私たちは食後のコーヒーを飲みながらも歴史談義を続けていた。
「いけない、本間と交代しないと」
「あらら、ほんと。もうお昼が終わっちゃう」
私たちはあわてて、立ち上がった。

来年の大河ドラマが明智光秀だそうで、こんなことを思い出しましたよ。
今日から石油ストーブを出しました。