ブルーノ・ワルター(ヴァルター)というドイツ人(ユダヤ系)の指揮者がいた。
この人は、私が生まれた年にちょうど亡くなってしまっていた。

ゆえに私が彼を知ったのは、大人になってグスタフ・マーラーの交響曲を聴いた時だった。
もっともマーラーを理解した指揮者として解説書には紹介され、かのレナード・バーンスタインも賞賛していたというほどの指揮者だったようだ。


ユダヤ人であるがゆえに、彼もまた第二次世界大戦中ナチスに虐げられ、文豪トーマス・マンや、物理学者アルバート・アインシュタインのようにアメリカに逃げて命を永らえた人物なのだった。

ワルターは同じドイツの指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーに並び称され、交流もあったけれど、生粋のドイツ人だったフルトヴェングラーはナチスに重用され、ワルターとの仲も疎遠になっていく。
アメリカに渡ったワルターはフルトヴェングラーに辛辣な批判を寄せるようになるのだった。

ワルターは、幼少のみぎりより音楽の才能が開花し、13歳でベルリンフィルのピアニストとして活躍するほどだった。
シュテルン音楽院を卒業してピアニストとなるのだけれど、将来は指揮者を目指していたようで、その願いはケルンで成就する。
その後ハンブルクでマーラーに出会ったことが彼のターニングポイントとなるのだった。
ウィーン音楽院で教鞭をとるかたわら、マーラーとともに音楽活動をしていくわけだが、このころ「ブルーノ・ワルター」を名乗るのだった。
それまではユダヤ系の本名「シュレーディンガー」を名前から取り去ったらしい。
著名なザルツブルグ音楽祭では、超がつくほど人気の指揮者としてブルーノ・ワルターは名を馳せた。

その絶頂の期間も、ナチスの台頭でオーストリアがドイツと併合されるころになると、斜陽が射してくる。
ゲッベルスがブルーノ・ワルターの演奏会をことごとく邪魔して、中止に追い込むのだった。
命の危険を感じたワルターはヨーロッパを、知己をたどって転々とする。
フランスで国籍を得て、なんとか生き延び、その国で音楽活動を細々とやっていくのである。
1939年9月、とうとう第二次世界大戦が勃発し、ワルターはアメリカに渡る決心をする。
以後、ワルターはカリフォルニア州のビバリーヒルズに居を構え、安定的な音楽活動に就くことができた。
マーラー生誕100年の記念演奏を、ウィーンで指揮したときはもう1960年であり、彼がその二年後に心不全で帰らぬ人となってしまったのだった。

残念ながらこの人の指揮する姿を、私は見たことがない。
肖像は、若いころのものだが見たことはある。
なかなか「イケメン」である。
少なくともドボルザークよりはかっこいい。
マーラーの「九番」の初演をワルターが振ったと伝え聞く。
指揮者で音楽は変わるものだというクラシックファンなら自明のことが、私にはワルター(1938ヴィエナフィル:モノラル)とバーンスタイン(1979ベルリンフィル)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(ベルリンフィル)のマーラー交響曲第九番のレコードもしくはCDで体験することができた。

秋の夜長にいかがかな?