ベンゼン環は正六角形の平面で表されるけれども、ベンゼンに水素添加して共鳴(共役二重結合)を絶てば、シクロヘキサンとなって平面ではなくなる。
シクロヘキサン
これがシクロヘキサンの構造だが、左が「いす(椅子)型コンホメーション」、右が「舟型コンホメーション」と呼ばれる。
この両者が平衡状態で遷移しており、両者を分離することはできない。
矢印が行ったり来たりしているのはそのことを示している。
つまりシクロヘキサンと言えば、この二つの形の混合物なのだと言ってもいいのだ。
ただし舟型は熱力学的に不安定なのでほぼイス型に落ち着いているのではなかろうか(矢印に大小あるのはそのせい)?

ところがナフタレンの水添化物、デカリン(テトラヒドロナフタレン)になると話は違ってくる。
イス型ーイス型のトランスデカリンとシスデカリンができ、両者は物理的性質も異なるので分離可能である。
またトランス体とシス体が可逆的に入れ替わることもない。
デカリン
(左がトランス型、右がシス型)Wikipediaより拝借

なんでこのようなコンホメーション(立体配置)を取れるのかといえば、図でも明らかなように水素原子の位置関係でそうなるのだ。
炭素原子につく水素は、炭素の腕が四つあることから四つの付き方があり、すでに隣り合わせの炭素原子との結合で三つの腕がふさがっている場合、残った水素原子の取りつき型は、アキシャル(極方向)とエクアトリアル(赤道方向)の二方向に別れる。
トランスデカリンでは水素原子がエクアトリアル方向の結合であり、シスデカリンでは一つの水素がアキシャル方向の結合になっている。
デカリンの図で上の二つは平面図だけれど、それでは中央の水素原子の立体的位置関係が分かりづらいので、黒い棒(テーパに書いて立体的に見せている)が紙面手前に飛び出ていることを表し、点線の棒が紙面の奥に引っ込んでいることを示している。

自然界では飽和縮合環の場合、トランス型が熱力学的に安定なのでトランス型コンホメーションを取るものが多い。
コレステロールの骨格である「シクロペンタノパーヒドロフェナントレン(フェナンスレン)」という舌を噛みそうな長い名前の縮合環炭化水素化合物がある。
ステロイド骨格

「パーヒドロ」なのですべての炭素原子においてC-C共有結合にあずからない腕には残らず水素原子が結合している。
左から順にA環、B環、C環そして五員環のD環と呼びならわしている。
「フェナントレン」はA~C環の縮合部分を指し、これらがすべてベンゼン環の場合「フェナントレン」という化合物だからそういうらしい。
すると最初の「シクロペンタノ」という接頭語はD環のことであり、たしかにシクロペンタンという五員環だ。
ステロイド系男性ホルモンの一種「テストステロン」は以下のような構造である。
テストステロン
これらの環はすべてトランス型コンホメーションで構成されている。
注目すべきはA環のジエノン構造だろう。
カルボニル基とエン(C-C二重結合)が共役系(ジエノン)になっている。
化学的に重要な部分はここだけで、D環のアルコール性水酸基はあまり役立っていない(生体内で意味は持つだろう)。
一方で女性ホルモンの一種「エストラジオール」はこんな構造だ。
エストラジオール
A環の部分を見てほしい。
ベンゼン環になっている。
これだけでも、「シクロペンタノパーヒドロフェナンスレン骨格」からしたら正六角形が縮合した形で、男性ホルモンとは全く異なる構造になってしまう。
くわえて、A環には水酸基が置換しているが、ベンゼン環に直接結合した水酸基を「フェノール性水酸基」と称して、アルコール性水酸基と区別している。
このフェノール(石炭酸)性の水酸基はベンゼン環の共鳴効果により、酸素原子上の電子がベンゼン環のほうに引っ張られ、電子密度が小さい。
すると、この水酸基の水素原子はイオン化しやすくなるから、酸性を示すのだと言われる。
だからフェノールが石炭酸と呼ばれるゆえんなのだが。
男性ホルモンが電気的に中性だったことから比べると、女性ホルモンは電気的にも酸性であるという全く異なった性質を持つにいたる。
生化学的にこの差は天と地ほどもある。
だから、極論ではあるが、男性と女性は異なるのだとも言えるのだ。
もちろん男性ホルモンだからと言って男性だけが分泌するものではなく、女性の体内でも分泌される。
第二次性徴に必要な性ホルモンゆえに、男女の名が付されているだけで、両性に具有されているホルモンであることは論を待たない。

縮合環のコンホメーションの違いが、性ホルモンの性質の違いにまで発展したが、分子の世界ではよくある話である。
光学異性体も生化学的には、分子構造が鏡像にあるだけで天地の差があるのだった。
まことに興味深く、これに興味を抱かない人は、人生の半分以上を無駄にしていると、私は思う。