2025年の大阪万博開催が決まった。
私は反対派だったが、決まってしまったものは仕方がないので、大阪府やバックの経済界、政府によろしくがんばっていただきたい。
少なくとも、莫大な負の遺産を後世に残さないように祈るだけだ。

「エキスポ70」のころ、私は八歳だったので、ただもう珍しく、楽しい思い出しか記憶にない。
「人類の進歩と調和」というテーマを理解できずにいた。
大人になるにつれ、進歩には調和が伴わないと、あらゆるところでほころびが生じるものだと、ゆっくりと気づいた。
岡本太郎が「太陽の塔」という「べらぼうな」ものを建て、丹下健三の渾身の設計だった「お祭り広場」の屋根のど真ん中をぶち破る案に当時、万博にかかわった人々は気色ばんだが、丹下先生は岡本氏の奇想天外に折れた。
それほど岡本太郎は天才的だったのだろう。
出来上がれば、ますます、「太陽の塔」の象徴的威厳が屋根を突き破って、いや増したのである。
見る者を希望の彼方へいざなう、そういう力が「太陽の塔」には備わっていた。
おそらく東大寺の大仏を見上げた、奈良時代の人々と同じ気持ちだっただろう。

岡本太郎にとって「進歩」に「調和」は必要なかったのだ。

「エキスポ70」の開催に至るまでも、反対派がけっこういたらしい。
まさに、今の大阪万博誘致運動と同じ構図だったと聞く。
反対派の筆頭は、開高健だった。
かれは、政府が安保闘争の学生運動の矛先を「お祭り」に向けさせようとしているとして、冷ややかに見ていた。
国民の不満のガス抜きに万博を使うのだと。
開高はベトナム戦争従軍の経験から、大国の欺瞞や身勝手を良く知っていた。

彼の予感はそのまま現実のものとなり、学生紛争は潮が引くように消滅した。
過激派の連合赤軍などは、内部で崩壊し、残りは国外へ散っていった。

かくして日本は万博に沸いた。
延べ六千万人の人が、大阪千里の万博会場に訪れた。
私も、初めて外人に会った。
白い人は『奥さまは魔女』のサマンサそっくりで、黒い人は、ガボン館のお姉さんだったと思うが、丸まると太ってて、こぼれるような笑顔と、とってもやわらかな手のひらで握手してくれたっけ。
中国や韓国の人は、私たちとまったく同じ顔なのに、言葉が違った。不思議だった。
三波春夫の『万博音頭』の詞にあるように「世界の国から」いろんな人々が大阪に集まってくれたのだった。

私は純真無垢(?)だったので、素直に万博を受け入れた。
その未来都市を予感させる、美しい、変な建物が林立し、夢にまで出てくるくらいに私を虜にした。
たこ焼きしか知らない私は、アメリカンドッグやフライドチキンという新たな味にも魅了された。
「月の石」には御目にかかれなかったけれど、ダイダラザウルスというエキスポランドのジェットコースターにギリギリ乗れた。
実は、年齢制限だったか、身長制限があったようで、八歳の女の子は微妙だったらしいが、父がなんとかしてくれたみたい。
お土産をあれこれ選んだりするのも楽しかった。
「トンガーちゃん」というテトラポッドみたいなぬいぐるみや、メダルのついたキーホルダー、ピンバッジ、会場の地図になっているハンカチ、万博ハット、太陽の塔の置き物…

写真もいっぱい撮ってもらった。
ブリティッシュコロンビア館の丸太の上で立つ私、中央の公園の池の噴水をバックに母と撮った写真、モノレールから見た会場、太陽の塔、虹の塔、エキスポタワー、みどり館、笑顔のある大阪ガスパビリオン、巨大なクロワッサンみたいな富士グループパビリオン、ソ連館の尖った建物、竹を切ったようなサントリー館、恐竜のようなオーストリア館、球形のフランス館、平たいアメリカ合衆国館、石油コンビナートのような日本館、建築途中?のせんい館、フジパンロボット館もおもしろかった。
そして、スイス館とカナダ館が、とんでもなく美しかった

2025年大阪万博はどうだろう?
私は、1970年の万博ほど人々にインパクトを与えないだろうと思う。
もはや受け手の市民は、情報過多で、驚きを感じにくくなっている。
とはいえ、大型テーマパーク、たとえば大阪ならUSJのイベントの集客力には驚かされる。
TDLでも同じだろう?
客に驚きを与える手法は、まだまだふんだんにあるだろう。
「こけおどし」なんかじゃない、バーチャルリアリティーな世界で人は未体験ゾーンを「体験したい」のだ。

あと七年ですか…私は63歳だ。
VRも、IoTも、AIも、ITすべてが一つの高みに達しているだろう。
ネコも旦那も、もういないかもしれない。
私はひとりだろうか?
最期の旅のひとつに、冥途の土産に、大阪万博とやらに行ってみようか。