私が高校生になったころ、一部の「お成績のいい」生徒たちが先生を巻き込んで「ウォーゲーム」なるボードゲームをはやらせたことがあった。
紙のボードに地図が印刷されていて、その上にヘックスという正六角形のハチの巣図形が重ねられて印刷されているものだ。
この地図が作戦領域であり、プレイヤーは敵・味方に分かれてヘックスの上を旅団や小隊、中隊、大隊などの駒を移動させ戦闘のシミュレーションをするものだ。
細かいルールはいろいろあるのだが、私は世界史の加藤先生に付いて、このゲームを教わった。
先生によれば、このゲームは、実際に軍隊の参謀本部で「図上演習」としておこなわれていたものを、遊びとしてゲーム化したものだとおっしゃっていた。
そしてこのゲームに勝つためには、歴史を知らねばならないことも痛感したのである。
ほぼ、第二次世界大戦の有名な作戦がゲーム化されていたが、なかでもロンメル戦車軍団のゲームが、私にとって印象深い。
私は、中学生以来、叔父の影響でプラモデルに凝っていて、田宮模型の「1/35スケール」のミリタリーミニチュアセットと戦車でジオラマづくりに傾倒していたこともあって、ロンメル将軍の破竹の勢いに関してはよく知っていたつもりだった。
しかし、ゲームでは苦戦を強いられる。私のロンメル戦車軍団は最初から窮地に立たされた。
ゲーム終了まで一週間くらいかかるので、その間、いろんな本を読んだりしながら気の長い遊びだったことを覚えている。
社会科の準備室が、私たちのもっぱらの戦場だった。
ほかの男の子たちも、太平洋戦争の海戦ものや、珍しい三国志のものなどをやっていた。

それはそれとして、私が「第二次世界大戦がなぜ起きたのか」に興味が移っていったのは、ウォーゲームと無関係ではなさそうだ。
そこには、ヒトラーの野望だけでは説明できない、スターリンや、大英帝国、スペイン、フランス、イタリアのそれぞれの立場、オーストリアやポーランドの苦しい立場、石油や鉄鉱石などの物流、兵器を発達させた科学技術の進歩が織物のように絡んで、歴史が編まれているのだということを知らされた。
教科書ではなかなか知ることができない二十世紀の世界だった。

その頃の私のノートがある。
少し開いてみよう。
かなり長い記述があるが、ご勘弁を。

1934年8月2日 ヒンデンブルク大統領が病没(享年87歳)首相のヒトラーが後継となる(大統領・首相の合体=総統)。
1935年3月16日 ドイツは、第一次世界大戦の敗北で禁じられていた軍備を再開することを宣言し、5月には徴兵制度も再開。
同年5月2日 フランスはドイツをけん制すべく、ソビエト連邦に接近、露仏相互援助条約に調印、翌年2月7日に批准
同年6月 英独海軍協定の締結、Uボート建造は対英45%まで、場合によっては100%まで可能とし、ベルサイユ条約は事実上破棄された形になり、フランスの懸念は増した。
イギリスのロイド・ジョージ首相は、ナチス・ドイツの急進はソ連の共産主義革命思想の伝搬を阻止する「防波堤」になってくれるだろうと、ドイツの再軍備を歓迎した。
同年9月 メッサーシュミットMe-109試作機のテストが行われた。この時のエンジンはイギリス製ロールスロイス「ケストレル」だった。

ライン川の西岸一帯をドイツでは「ラインラント」とよび、対仏の緩衝地帯になって、非武装化されていたが…
フランスとドイツの関係が急速に悪化し始めた。
1936年3月5日 「スピットファイアⅠ型」の試験飛行成功
同年年3月7日 非武装地帯ラインラントへドイツ陸軍進駐
同年6月 イギリス空軍省が「スピットファイアⅠ型」を310機発注。しかし生産能力が伴わない。
同年7月 スペインの内戦において、左翼人民戦線に対抗する、右派のフランコ将軍率いる反乱軍に、ヒトラーは与(くみ)する。彼は、左翼思想がヨーロッパ西部からフランスに拡大することを恐れたのだった。
同年8月1日 ベルリンオリンピック開催。メッサーシュミットMe-109試作機の披露飛行をおこなう。
次回1940年大会は、なんと東京に決まっていた。しかし日中戦争に突入していた日本は開催を辞退するのだった。結局、太平洋戦争敗戦国の日本にとって、オリンピックの開催は、1964年東京大会まで待たねばならなかった。

ナチス・ドイツは、イギリスの賛同を得られるともくろんで、ソ連のボルシェビキ(レーニン主義)への対策(赤化対策)を理由にフランスとの緩衝地帯「ラインラント」へ進駐したわけだが、その裏で、この進駐により、フランスが武力で対抗してくる懸念を持ち続けていた。
しかし、フランスは軍を差し向けることはなく、紳士的に国際連盟へ、この件を提訴したのである。
ところが、ヨーロッパの自由主義諸国は、ボルシェビキ思想の蔓延に怯えていたため、国際連盟もナチスに甘い態度をとるほかなかったのだ。
それを良いことに、ナチスはイタリアのムッソリーニや日本と接近するのである。
枢軸国関係の始まりだった。

同年10月1日 スペイン、フランコ政権樹立、彼は大元帥(国家元首)となる。
同年11月6日 ついに日本とドイツは接近する。当時、武者小路公共(きんとも、実篤の実兄)が駐独大使だったが、彼とドイツ外相リッベントロップが日独防共協定を結び、のちの三国軍事同盟の基礎となった。
ドイツの外交筋(ノイラート外相当時)は、日本が、先の大戦(第一次世界大戦)で連合国側につき、ドイツと敵対したこと、満州国をドイツが認めていなかったことなどで日本との防共協定(軍事協定)の締結には及び腰だった。
しかしヒトラーの覚えめでたいリッベントロップがノイラートに代わって外相になったことから日本に対する考えが変わり、日独が急接近することになったのである。

一方で、すでに日本は1931年9月18日の柳条湖事件を端緒に日華事変(満州事変)が勃発し、日中は戦闘状態となっていた。
※柳条湖(当時は「柳条溝」と書いた)事件は関東軍(日本陸軍)が満鉄の線路に爆弾を仕掛けて爆破し、それを中華民国軍の仕業となすりつけて、戦闘開始の口実にした事件。
この事件以降、日本は、朝鮮半島から中国大陸北部に至る「満州国」を、国際世論を無視して建国し、国際連盟常任理事国でありながら、「満州国建国」を支持されなかったとして1933年2月24日に同連盟を脱退するのだった。
「満州事変は日本の正当防衛に当たらず。日本政府はただちに満州国を中華民国に返還せよ」
これが同事変の経緯を中華民国政府の要請で調査したリットン調査団の見解だった。
当然日本は従うはずもなく、このまま満州国に皇帝愛新覚羅溥儀を立てて、支配を強めて対中戦争を継続するのである。

1937年1月30日ヒトラーは対外的にベルサイユ条約中のドイツへの戦争責任条項を破棄することを明言したのである。そして周辺諸国(ソ連を除く、ベルギー、オランダ、フランス)に対し不可侵を宣言した。しかし、この演説がまったくの噓八百であることがすぐに明らかになる。

同年4月26日 ドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空襲(スペイン)。この空襲は、メッサーシュミットMe-109B2の事実上の初陣だった。
同年7月23日 国際航空機競技大会(チューリッヒ)でメッサーシュミットMe-109試作機が優勝

同年11月5日 ヒトラーは奇妙な「東方生存圏」なる考えを唱え、その獲得のための戦争計画を明らかにする(『我が闘争』参照)。つまりドイツ国民が栄え、人口が増えることによって新たな土地を大陸の東側に求めるという風な内容である。この考えに懐疑的な側近は陰謀により退けられた。
同年11月6日 日独防共協定にイタリアが参加「日独伊防共協定」となる
同年11月19日 ヒトラーと英国ハリファックス卿(枢密院議長)の会談で、ハリファックス卿がヒトラーの政策を支持することを表明し、ヒトラーは感激している(於ヒトラーの山荘)。
つまり、イギリスはドイツによるオーストリアとチェコの併合と、ダンツィヒ回廊(ポーランド回廊)と呼ばれたドイツの飛び地(ポーランドの港町で現在のグダニスク)に対するドイツの主権を認めた。
※ダンツィヒは歴史上、複雑な経緯を持つ都市で、ナポレオン時代から自由都市(独立国家的な都市)とされてきた。
同年12月 イギリス、スーパーマリン社が「スピットファイアⅠ型」の生産に間に合わず、たった6機しか完成しなかった。

1938年3月12日 ドイツはオーストリアに侵攻するが、無血入城だった。オーストリアの国民はドイツを歓迎したという。この感情は複雑である。オーストリアはドイツのプロシア時代にプロシアに攻められ、敗北した経緯があるからだ。オーストリア国民の多くは、「ナチス・ドイツ≠プロシア」とみており、また、ヒトラーが事前に反対勢力を駆逐して傀儡政権を樹立させやすくしていたのである。
実際に、オーストリア人民の生活は、ナチス・ドイツの経済政策により飛躍的に向上したのである。オーストリアの親ナチ度はいやがうえにも増した。
続いて、ナチス・ドイツはチェコのズデーテン地方からチェコ・スロバキア(当時)を手中に収めようと画策した。
ズデーテン地方には、もとよりドイツからの移民が多かった事情があり、またヒトラーの「東方生存圏」思想の実現にはどうしてもこの地方を所望したのである。
チェコ・スロバキアは多民族国家であったため、その中のドイツ系移民がナチスに主権の向上を訴えていた。
この地ではドイツ人がチェコ人に不当に扱われる事案も多数あったようである。

同年4月28日 ドイツはポーランドとの不可侵条約を一方的に破棄
同年9月12日、ナチスはこのドイツ系移民の不満を利用して、武装蜂起を企て、チェコ・スロバキアは一触即発の危機に見舞われる。
同年9月15日、この状況を鑑み、イギリスのチェンバレン首相がヒトラーに会見を申し出た。
この会見で、ズデーテン地方の西部だけをドイツに編入することをチェンバレンが認め、同盟国のフランスにも認めさせると約束したという。
ところが、ヒトラーは「ズデーテン全域をドイツに編入」と言葉を改悪して宣言してしまったため、チェンバレンとの交渉は決裂してしまう。

同年9月29日、このままでは、チェコ・スロバキアとドイツは武力衝突が避けられず、ふたたび、ヒトラーは英・仏・伊の首脳とミュンヘンで会談を持った。
英仏の首脳、チェンバレンとダラディエ両首相は、ついにヒトラーに屈服しチェコ・スロバキアの承認なしに、ズデーテン地方全域をドイツに差し出すことを認めざるを得なかった。
チェンバレン英首相が、ドイツに弱みを握られていたことも大きく作用した。
ヒトラーは英独海軍協定を持ち出して、イギリスとドイツは和平のうちに友好関係を築く旨を押し出し、ズデーテン地方の経済的支援で人民の生活を向上させるのがドイツの目的であり、一切、武力行使をしないことなど、いちいちもっともで前向きな政策をヒトラーが打ち出すために、でチェンバレン首相も反論できなかった。
このころ、イギリスの国民はチェンバレン政権に不満を募らせており、政権も軍隊も他国に干渉する余裕がなく、英国民の世論をチェンバレン首相がまとめ切れていなかった。
一方で、反共思想のヒトラーに同調するイギリス人も少なからずあり、ズデーテン地方が対ソの防御壁となるためには、ドイツに任せたほうが得策だという考えもあった。
1938年10月 やっと「スピットファイアⅠ型」の49機がイギリス空軍に納品された。

1939年1月26日 フランコ軍によりバルセロナ陥落
同年2月27日 英仏がスペイン・フランコ政権を承認する
同年3月14日 スロバキアが独立するも、ナチスの保護下になる。翌日、ナチスドイツがボヘミアを占領、カルパト・ウクライナ独立に対して、ハンガリー王国が武力行使。結局、16日にはハンガリー王国がカルパト・ウクライナを併合してしまう。
同年3月22日 ドイツがリトアニア(メーメル地方)を併合。翌日、スロバキア・ハンガリー戦争勃発(同月31日まで)。
同年3月28日 フランコ軍がマドリード占領、スペイン内戦の終結
同年5月12日 ノモンハン事件勃発(満蒙国境)。7月1日に日本のノモンハン攻撃作戦開始
同年7月26日 日米通商航海条約がアメリカによって破棄通告
同年8月2日 アインシュタインがルーズベルト米大統領に原子爆弾の開発を促す書簡を提出。のちの「マンハッタン計画」の基礎となる。
同年8月26日 日本の「ニッポン号」(毎日新聞社機)が世界一周飛行に出発、10月20日に見事に帰還。
同年8月27日 ドイツ・ハインケル社で初のジェット機が飛ぶ(He-178)
同年8月30日
 山本五十六大将が連合艦隊司令長官に任命される。

同年9月1日 ドイツ軍のポーランド侵攻(世界史ではこれを第二次世界大戦の勃発とみる)
このときすでにドイツ空軍は千機以上のメッサーシュミットMe-109(B~E型)を保有していた。
同年9月3日 英仏がドイツに宣戦布告(まやかし戦争)、翌日、日本は不介入を宣言。チャーチルがイギリス海軍大臣に就任。5日にはアメリカは中立を宣言する。
同年9月15日 ノモンハン事件の停戦協定(東郷茂徳・モロトフ会談)
同年9月17日 ソビエト連邦赤軍のポーランド侵攻
この二つの「ポーランド侵攻」はその年の8月23日に独ソで調印された「モロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)」に基づく「密約」で行われた「芝居」であった。
ポーランド国民の悲劇はこの侵攻に始まり、ポーランドの国土は独ソによって二分されてしまったのである。
ヒトラーとスターリンは相容れない仲であったはずなのに、この二人は手を結んだわけである。
当然、世界は驚愕し、あるいは共感する向きもあった。
大英帝国の首脳は驚きを隠せなかっただろう。
同年9月23日 ニューヨーク万国博覧会開催
アメリカ政府はヨーロッパの動乱につき静観する構えだった。
もとよりアメリカ議会では、欧州大陸の戦乱に介入しないという「モンロー主義」が第一次世界大戦からの教訓となって、中立を保つ立場が大勢を占めた。
日本は、親ドイツ派の陸軍、ナチスに懐疑的だった海軍左派に別れて、遠く極東から耳をそばだてていたという感じだろうか?
もちろん日本政府や軍部も人員をヨーロッパ諸国に派遣し、いち早く情報をつかんでいたはずである。
※松岡洋右(外相)・モロトフ会談

独ソ不可侵条約は二面性があり、世界に公表された条約内容以外に密約が存在したのである。
表向きは、「相互不可侵」「中立義務」であるのに、密約では東欧諸国とフィンランドを独ソで分け、干渉していく内容だったのである。
つまり「不可侵」ではなく「両国の進出に文句を言い合わない」という密約なのだった。独ソの「偽りの」蜜月は1941年6月22日の「バルバロッサ作戦」まで続く。

同年10月16日、28日 スコットランド付近で英空軍「スピットファイア」とドイツ空軍「ハインケルHe-111」の空戦、スピットファイアが初陣を飾る。
同年11月30日 冬戦争(ソ連軍のフィンランド侵攻)
バルト諸国はソ連軍に屈服し、フィンランドは多くの犠牲を出しながらもソ連軍を撃退し独立を守った。
同年12月13日 南米ラプラタ沖海戦(ドイツ・イギリスの初の海戦)

1940年1月16日 米内光政内閣成立
同年2月2日 民政党斎藤隆夫の反軍演説(日中戦争批判)でのちに衆議院議員を除名される。
同年3月28日 日本政府は「適性語」として英語などを使うことを禁じる。対米戦時体制に入ったか?
同年3月30日 汪兆銘は南京に、蒋介石とは別個の中華民国政府を樹立する。
汪兆銘は蒋介石の腹心だったが、蒋介石と日本(近衛内閣)の対立が激化しており、汪兆銘はなんとか日本と和平交渉にこぎつけたかった。
いよいよ蒋介石と汪兆銘の溝が深まり、汪は蒋介石と袂(たもと)を分かつことになるのであった。
近衛文麿も汪兆銘の働きかけに応じる姿勢を見せたが、日本の外務省が蒋介石を支持しており、外交の足並みがそろっていなかった。
ナチス・ドイツもリッベントロップ外相が就任して親日的に外交を進め、彼らの防共協定に誘い込もうと近づき始める。
日本内部でも、蒋介石に敵対し、汪兆銘政府を支援せよとの声が高まってくる。
一方で、米・英・蘭・ソの連合国サイドは「蒋介石の政府以外の中国政府は認めない」という姿勢を明らかにしており、汪兆銘政権は日本の傀儡政権だと判じられ、大戦に巻き込まれていくのだった。

同年年4月8日 ドイツのデンマークとノルウェー進駐(Me-109E,Me-110、北欧戦争)。ほとんど戦闘にはならなかった。
同年年5月10日 ドイツのベネルクス三国併呑(黄色作戦)つづいて、ドイツ戦車軍団のフランス侵攻、マジノ線に迫る。イギリスではチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチル海相が首相に指名される。同日アイスランドにイギリス軍が侵攻する。アルデンヌ森での赤色作戦でフランス軍の守備は崩壊す。
※ドイツ軍のⅠ号戦車、Ⅱ号戦車はフランス軍の鈍重なルノーB1戦車を次々に撃破していった。

イギリスのアイスランド侵攻は、海からのドイツのイギリスへの侵入を憂慮したからで、北欧がドイツに抑えられてしまったためにアイスランドを得て北からの侵入を防ぐ意味があった。しかしアイスランド王国は非武装中立であったため、戦闘にはならず、イギリスに今後協力する約束を取り付けただけの侵攻だったらしい。
同年5月15日 オランダがドイツに降伏
同年5月18日 日本軍の重慶爆撃
同年5月28日 ベルギーがドイツに降伏
同年6月3日 ドイツ軍のパリ空襲
同年6月4日 ダンケルクの撤退、ダイナモ作戦、約33万人以上のイギリス兵士を本国に撤退させた。
同年6月10日 イタリアが英仏に宣戦布告。ノルウェーがドイツに降伏
同年6月14日 ドイツ軍のパリ無血入城(パリ陥落)。フランスのレノー内閣総辞職。後任のペタン元帥がドイツに休戦申し入れ(16日、17日)。ド・ゴールはイギリスに亡命し、「自由フランス」を標榜してレジスタンス活動を援護する(18日)。
同年7月2日 ペタンはナチスの傀儡政権としてヴィシーに政府を置く。
同年7月10日 バトル・オブ・ブリテン始まる。

同年7月16日 米内光政内閣総辞職
同年7月21日 バルト三国が社会主義国家として独立
同年7月22日 第二次近衛内閣発足
同年8月20日 中国八路軍が日本軍に攻勢(百団大戦)
同年8月30日 第二次ウィーン裁定
同年8月31日 杉原千畝(ちうね)副領事が、ナチスの迫害でポーランドから逃げてきたユダヤ人難民にビザ発給
同年9月23日 日本軍の北部仏印(フランス領インドシナ北部)進駐(タイ・仏印国境紛争干渉)
フランスがドイツに負け、ヴィシー政府というドイツ傀儡(かいらい=あやつり人形)政府が政権を握ったため、北部仏印へのフランスの影響力が弱まりつつあったことが好機となって、日本が干渉したのである。
同年9月27日 日独伊三国軍事同盟成立
同年10月12日 日本では大政翼賛会の発会が行われ戦時体制が本格化する。ドイツ軍がルーマニアに進軍
同年10月28日 イタリア軍がギリシアに進軍(ギリシア・イタリア戦争)。ヒトラー・ムッソリーニ会見
同年10月31日 バトル・オブ・ブリテン終了
同年11月5日 アメリカ、フランクリン・ルーズベルト大統領三選を果たす
同年11月10日 日本は皇紀2600年記念式典。三菱の零式艦上戦闘機が、この年すでに海軍で採用され中国大陸で活躍していた。
同年11月11日 タラント湾空襲(英空母イラストリアスから発進した複葉雷撃機ソードフィッシュの雷撃でイタリア海軍の艦船が沈められた。
この月、ハンガリーやルーマニア、スロバキアなどが相次いで枢軸国に加入している。

1941年3月8日 コーデル・ハル米国務長官と野村吉三郎駐米大使の日米交渉開始
同年4月3日 北部アフリカ戦線でロンメル戦車軍団がイギリス軍を撃破
同年4月6日 ユーゴスラビアがソ連と不可侵条約調印。これを受けて、ドイツがユーゴとギリシアに侵攻。
同年4月13日 日ソ中立条約成立
同年4月16日 ハル国務長官が野村大使に「四原則」を表明。つまり、
一、すべての国の領土と主権を尊重する。
二、他国への内政に干渉しないこと。
三、通商上の平等を遵守すること。
四、平和的手段によって変更される場合を除き、太平洋の現状変更を許さない。

以上である。
至極まっとうな原則だが、当時の日本の立場、勢いなどから、到底承服しかねる内容だった。
四原則の裏には、アメリカの「従えるものなら、従ってみよ」、「こぶしを挙げた方が負けだ」という横柄な態度が見え見えだった。
平和とは「力の均衡が保たれている」状態をいうのだということが如実に表れている。
決して腹の底から「仲良く」しているのではなく、一触即発をかろうじて回避しているのが当時の日米関係だった。
両国の腹の探り合いはしばらく続く。

同年4月17日 ユーゴスラビアがドイツに降伏
同年4月23日 ギリシアがドイツに降伏
同年5月7日 中原会戦(日中戦争の一つ)、重慶爆撃も激化する。
同年5月8日 東京条約成立しタイ・仏印紛争が終了する。
同年5月27日 ドイツ海軍新鋭戦艦「ビスマルク」沈没し「ライン演習作戦」の失敗。
同年7月16日 第二次近衛内閣総辞職(松岡洋右外相罷免目的)
同年7月28日 松岡が反対していた日本軍の南部仏印進駐が始まる。これで日米の関係は一気に悪化する。

同年11月27日 日本政府にハル・ノート(1941年11月26日(現地日付)アメリカ提案書)が示された。その内容はとうてい日本政府、ことに帝国陸軍首脳には受け入れがたいものだった。

「ハル・ノート」によれば、アメリカは、日本が「南部仏印」へ、タイとの国境紛争を口実に干渉して進駐したこと、ナチの傀儡政権「ヴィシー・フランス政府」に与(くみ)したこと、満州国を勝手に建国し、蒋介石に敵対する「汪兆銘政府」を「中華民国」として承認したこと、日独伊三国軍事同盟に参画したことなどを不服として挙げていて、早期にこれらを解消すれば、日本に対する圧迫を解くというものだったと、私は記憶している。
※これ以前に「ハル四原則」を踏まえた「日米諒解案」というものがハル国務長官によって示されており、それには米国が、日本の満州国支配を容認する(現状承認)ような内容があり、進展のない会談に焦った野村大使が「米政府見解」としてこれを報告して、日本政府(近衛内閣)を喜ばせてしまった経緯がある。
この「ハル・ノート」によって、日本政府(ことに東條英機陸相ら)は「話が違うじゃないか」と憤慨したのは当然かもしれない。
ローレンス・スタインハート駐ソ大使と別ルートで会談を重ねていた松岡洋右(ようすけ)外相は、4月22日に帰国し、同時に電文も送信している。電文には「諒解案」の内容が自身の会談内容と食い違っていることに異議を唱え、松岡独自の見解が表れていた。対米軟化しかけていた日本政府を一気に硬化させた。本電文はアメリカによって傍受、漏洩してしまっていたようである。
5月7日に野村大使はハル国務長官と会談し、松岡外相の見解を述べたが、今度は国務長官側が「まったく違う」と憤慨する番だった。同月12日に野村大使が修正案を提示するも、もはや日米間の溝は埋めがたいものになってしまっていた。
松岡外相は、さらに頑(かたく)なになり、近衛内閣と対立してしまう。7月16日、日米交渉を決裂させたくない近衛首相は、内閣を総辞職し、事実上、松岡洋右を更迭したのだった(翌日第三次近衛内閣発足、後任の外相は豊田貞次郎)。

すでに帝国海軍首脳は、アメリカとの戦争は不可避であるとして、山本五十六連合艦隊司令長官も「奇襲による短期決戦」でしか勝ち目はないと、南雲忠一海軍機動部隊長官に海軍航空隊の訓練を激励していた。
作戦地域をアメリカ海軍太平洋艦隊の拠点「ハワイ、オアフ島の真珠湾」と特定し、航空戦力による敵主力艦船の撃破を目指し、アメリカの戦意喪失を狙うのが目的だった。
物量共に日本をはるかにしのぐアメリカ軍に対して、勝てる見込みは奇襲しかないのだった。
海軍の内部では石油備蓄の不足が懸念されており、このまま日米関係が悪化し、石油などの物資の禁輸が行われれば、日本はボルネオやインドネシアの油田に活路を見出すほかはなく、陸軍は中国大陸から南北仏領インドシナを経て、タイ、マレ半島、シンガポールを目指し、海軍はハワイ以西からインドネシアまでの海域を制海権の収める覚悟を決めていた。
そのためには早期に、東南アジアの制海権・制空権を得て、蘭印、英領シンガポール・マレー半島、イギリスの同盟国オーストラリア軍とアメリカとの連携を絶つべく作戦が練られた。

同年11月28日 野村大使、来栖三郎特命大使らとルーズベルト大統領の会談がもたれるものの、両国の不信感はぬぐえず対話は平行線に。しかもこの会談の裏では、日本政府は着々と日米決戦に向けて準備を整えていた。つまりは「時間稼ぎ」にすぎなかったのだ。ただし、アメリカ政府も日本が近いうちに武力行使をしてくるであろうことはつかんでいたものの、米国世論やアメリカ海軍太平洋艦隊には喫緊の雰囲気は伝わっていなかったらしい。

同年12月2日 英海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」がシンガポールに入港(8月25日にイギリスを発った)。
同年12月8日 日本は真珠湾奇襲を敢行、宣戦布告なしに米英と戦争状態になる(太平洋戦争の勃発)。米主力空母を逃してしまったことと、アメリカ世論を怒らせたことによって、日米の戦争に「火に油を注ぐ」結果になり、アメリカの猛反撃が日本を襲う。
同年12月10日 マレー沖海戦で「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が沈没。

私のノートはここまでで終わってました。
続きを書こうとして、やめたんだと思う。

府立門間高校も、今はありません。
校舎はそのままですが「なみはや高校」と名前が変わり、統合された模様です。
ですから校歌も校章も見たことのないものです。
わたしの高校時代は、思い出にだけ残っている。