昭和十五年の五月、戦時体制の色がますます濃くなった世間に、私は息苦しさを禁じえなかった。
英語は敵性語として、印刷物から消えた。
横山家では、そんな世間の風潮には無頓着に過ごしていたが、一歩外に出るとそうはいかない。
いくら子爵令嬢とて、派手な格好で駅などを歩こうものなら警察に呼び止められて、厳しく絞られるのだった。
私はゆるくパーマネントを髪にかけていたけれど、まっすぐに戻してしまった。
着る服も洋装ではなく、母が持っていた着物とモンペで外を歩くようにしていた。
勤め先の川崎航空機に向かうと、技師たちが灰皿に吸い殻の山を作って、図面を何枚も広げて議論していた。
黒板には、陸軍航空技術研究所内示計画と大きく書かれ、「キー60、キー61、キー64、キー66」と続いて書かれている。
この計画は今年の二月ごろからうわさされ、なんども会議がもたれていたものである。
後で知ったが、番号が飛んでいるのは中島飛行機が「キー62、63」、三菱が「キー65」を担当していたのだそうだ。

「DB-601が4台しかないのだ」土井武夫技師が腕を組んで、独り言のように言う。
苦労してドイツから船で運んできたエンジンである。
私は、そっと部屋の後ろで邪魔をしないように立っていた。
「キー60、61にはDB-601を載せたい」
「キー61は少し遅らせましょう、土井さん」と八卷技師。
「そうだな。キー60は三機試作する、それで様子を見ようじゃないか」
末席のフォークト技師も大きくうなずいた。
図面を盗み見ると、キー60や61はメッサーシュミットに似ていた。
陸軍の意向で「重戦闘機」という位置づけだと黒板にも書かれていた。
重さが重いという意味なのだろうか?
それでは、重すぎて飛べないではないか?
お昼に、土井さんに尋ねたら、大笑いされた。
「横山君、あれは重い戦闘機と言う意味じゃないよ。重火器、つまり強力な機関銃が積まれる予定だから重戦闘機っていうのさ」
「そうなんですか」
「ま、重くなるには違いないがね」
「やっぱり、重くなるんですね」
「だから、どこか削るか、エンジン…あ失敬、発動機の出力を上げるしかない」
土井さんも敵性語に気遣っているようだった。

陸軍航技研から、キー61には海軍の三菱製「ハ21」を使えばどうかと打診された。
ハ21はイスパノスイザ21YC機関砲を内蔵した国産液冷式発動機だった。
しかしこの話は三菱側が難色を示したために立ち消えになった。
なにやら政治的な圧力を感じる事件だった。
そこで、土井さんやフォークトさんはダイムラーベンツDB-601をなんとしても国産化して積むのだと意気込んだのである。
この発動機がのちの「ハ40」となるのだった。
陸軍は中島の「隼」のような軽戦闘機よりも、火器の重厚な重戦闘機に傾斜していったころだった。
実際、「隼」のあと、二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」や二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」も防空用として重火器が目玉になっていた。

「キ-60は最高速度、時速700kmは出るだろう」
土井さんは自信たっぷりだ。
ただ、陸軍航空本部では「隼」の軽快性、空戦性も捨てがたいと見る幹部もいて、重戦闘機一辺倒はいかがなものか?という意見もあり揺れていた。
土井さんもそのことを肌で感じていたので、軽快性という戦闘機性能も軽んじてはいなかったのだ。
中島の「隼」に限らず、三菱の「零戦」という名機の中国大陸での活躍を聞くにつけ、やはり空戦性能は無視できないのではないかと思っていたようだった。


ちまたには「加藤隼戦闘隊」の歌が勇ましく響いていた。
「エンヂンの音、轟轟と 隼はいく 雲の果て…」