今日のNHK交響楽団アワーでロブロ・マタチッチ指揮のブルックナー交響曲8番をやっていた。
この公演は1984年の3月7日に日本でN響を振ったときの映像だった。
マタチッチの録音や録画は後述する理由から非常に貴重なものとなっている。

彼はこの公演の翌年、1月4日に息を引き取るのだった…

私がマタチッチの名を知ったのは遅かった。
その時は、すでに彼はこの世を去っていたからだ。
私はワーグナーが好きで、私の手元にあるCDが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でマタチッチ指揮のものだったのである。
この奇妙な名前が私の記憶に残っていた。
彼が数奇な運命に翻弄され、その生涯を終えていたとは、はからずも知らなかったのだ。

マタチッチは1899年にオーストリア・ハンガリー帝国(当時)で生まれたそうだ。
幼少期をウィーン少年合唱団で過ごし、音楽的才能を開花させる。
ベルリンフィルの指揮者などを経て、第二次世界大戦になり彼の祖国はユーゴスラビア共産党のチトー元帥が反ナチ抵抗勢力として台頭してきていた。
チトーはソビエト共産党に影響を受けた共産主義者であり、パルチザンを指揮して旧ユーゴスラビア建国の父となる人である。
そのチトーはマタチッチをナチスの御用音楽家だとして捕らえ、投獄し軍事裁判にかけて、ユーゴの裁判所は彼に死刑判決を言い渡すのだった。
マタチッチはドイツで活動していたときにヒトラーに気に入られ、というのもマタチッチがブルックナーやワーグナーをよく演奏していたことと関係していたのかもしれない。
ヒトラーはワーグナーの勇ましい交響曲をプロパガンダに利用した。
そしてそれをマタチッチに指揮させていたのだろう。
そういう経緯から、チトーはマタチッチをナチズムに加担した戦犯だとして裁判にかけたのだ。
マタチッチもチトーと相容れない態度を頑なに保持し続けた。
死刑執行の当日、刑務所の所長は最期に、彼のピアノを聞きたいと所望し、演奏を許した。
その演奏はすばらしいものだった。
所長の心が解きほぐされ、「芸術家を死刑にするのはしのびない」と執行を停止した。

マタチッチは晴れて娑婆に出るが、音楽活動をするにしても「ナチ信奉者」の刻印がそれを阻んだ。
誰も彼に音楽をさせなかったのだった。
ドイツは東西に分かれてしまい、マタチッチは西側のドレスデンでようやく国立歌劇場の総監督の職を得る。1956年のことだった。
つづいて1961年にフランクフルト市の歌劇場の総監督に就任するまでに地位を回復した。
おそらく1959年のバイロイト音楽祭でワーグナーの『ローエングリン』を指揮したことが評価されたのではなかろうか?

マタチッチの故郷が戦後はチェコスロバキアという国になり、彼は、その国のチェコフィルハーモニー管弦楽団に招かれて指揮することも多かった。
やがて1968年「プラハの春」を迎えることになる。
チェコスロバキアの一部スロバキアの自治権を認めよという変革が起こったのである。
ミラン・クンデラという作家をご存知の方もいるだろう。
彼ら、作家たちが共産党への政治批判を行った。プラハでは学生のデモが多発し、反共運動となっていく。
当時はノヴォトニー政権で、ソビエト連邦の息のかかった政治だった。
謀反者への粛清が厳しく、とうとう若者たちの不満が爆発してしまった。
それに乗じてスロバキア独立を目指すスロバキア共産党の興隆である。
慌てたのはソ連のブレジネフ書記長だった。
立場を危うくしたノヴォトニーがブレジネフを呼んだのか、ブレジネフが危機感を感じてかしらないがブレジネフがプラハに非公式でやってくるという事態になった。
ついにはワルシャワ条約機構軍(ほぼソ連軍)がチェコスロバキアに侵攻して占領下においてしまうのであった。

マタチッチがで何度も来日してN響の指揮をするきっかけになったのは第一回公演(1965年)でN響の技術に惚れ込んだからだと言われる。
「なんていい音をだすんだろう」とマタチッチは感銘を受けたという。
以後、マタチッチは関係の深いチェコフィルハーモニー管弦楽団で演奏したスメタナの『我が祖国』を「プラハの春」への抗議として1968年9月の来演で急遽予定の演目を変えての演奏を披露した。

ただ、やはり、マタチッチの評価にナチスの過去が影を落としており、それゆえ録音や録画が極めて少ないのである。

私は、カズオ・イシグロ氏の『浮世の画家』でも書いたが、芸術家を評するときに芸術家が生きた時代も考えていかないといけないと思うのだ。
戦争のプロパガンダに利用されただの、そういう些末なことは、ことに左翼思想家がやりがちな重箱の隅をつつくような無益な総括になりかねない。

チトーの戦争犯罪人収容所の所長がマタチッチの演奏を聴いて心を動かされ、その死刑を執行しなかったことは英断だと思う。
芸術は人の情動を左右するのだ。