桜ノ宮駅を降りると、そこは雑然としたいかがわしい空気に満ちていた。
こんなところで、清純な角野さんに、一生の思い出を作らせて良いものだろうか?
角野さんも、うつむき加減で私の後ろをついてくる。
数分も歩けばラブホテルのけばけばしいたたずまいがいやでも目に入る。
私は立ち止った。
「角野さん、よしましょう」「は?」「こんなところは、あなたにはふさわしくない」「はぁ」
角野さんも、困り果てているようなそぶりだった。
私は彼女の手を引いて元来た道を引き返した。
角野さんは、私に引かれるまま、駆け足でついてくる。
私は桜ノ宮駅の切符売り場まで戻ってきた。ほんの10分ほどしか経っていないのに、何時間もそうして彷徨っていた気がした。
角野さんも、額に汗を浮かべて、肩で息をしていた。
「くくくっ」
喉の奥で角野さんが笑い声を我慢しているような音を立てる。
私もなんだかおかしくなってきた。
「ごめんなさい。おかしくって。あたしたち」
「そうだね。まったくだ」
「あの、戸田さん」「え?」「私の家に来ませんか?」「あ、はぁ」「散らかってますけど、よろしければ、晩御飯を一緒に食べて行ってくださいな」
そういうのだった。
私の完敗だった。
角野さんは、年上の余裕で、私に助け舟を出してくれたのだった。
「無理しないで」と、角野さんの目が言っていた。

梅田から、阪急宝塚線の石橋駅まで行くことになった。
角野さんのマンションは石橋駅の近くだということだった。
「戸田さんは、何がお好き?」「簡単なものでいいですよ。お惣菜とか買っていきましょうか?」「あたし作りますから。これでも料理は得意なんです」「そうですかぁ…じゃあ何にしようかな。どんなのが得意なの?」「パエリアとかどうでしょう?」「いいですね。パエリア。好きです」「じゃあ、魚介のたくさん入ったパエリアをご馳走します」「私、ワインを買いましょう」「ええ」
電車の中で、私たちは肩の荷が下りたようによくしゃべった。

石橋駅の近くのスーパーマーケットで食材やワインを買い、傍目(はため)には、私たちが夫婦のように映ったことだろう。
日の高い、夕方の五時に角野さん宅に到着した。
小さいマンションで、五階建てだった。
エレベータも小さく、やや古い感じがした。
「私のマンションも、こんな感じだ」「中古物件を探してたら、ここを紹介されたの」「へぇ」
四階にエレベータが止まり、私たちは出た。
周りに高い建物がない分、見晴らしがよかった。
遠く、六甲の山々も見える。
「あそこが待兼(まちかね)のキャンパスよ」
彼女の指さす方角に、阪大豊中キャンパスがあった。
そこの総合図書館に角野さんが勤めているのだ。
部屋は端から二番目で、中に入ると、かすかにお香の香りがした。
2LDKの部屋は女の独り暮らしらしく、物は少なかった。
「散らかってるでしょう」「そんなことないよ。私の部屋なんかに比べたら片付いているよ」「本が多いの」「やっぱりね」「そこに荷物を置いてください。適当にお座りになって」「じゃ」
スライド書棚がリビングに二つもあり、文庫や新書がいっぱい詰まっている。
窓際にはマホガニーのビューロがあり、そこが彼女の書斎という風情。
本棚を見ると、東洋史関係の本や美術、英文の背の洋書も少なからずあった。
「あまり見ないでください、はずかしいわ。先生」「先生はよしてください」
私は、そばに来た角野さんの肩を抱き、口づけを試みた。
角野さんは身を硬くして、目をつむり、私を受け入れてくれた。
私は唇を重ねた。
かすかな口臭と、甘い唾液が私を興奮させる。
しっかりと舌を入れ、角野さんの口の中を探る。
角野さんは、されるがままに顔を上に向けている。
可愛らしい鼻の孔…
「いけない。お湯が沸いたわ」
そういうと私から離れ、キッチンに消えた。
私は唇を拭った。
そして、勃起していた。
律子の時と同じだった。