NHK朝ドラ『まんぷく』の総集編をやっていたので観ていたのだが、GHQの立花万平に対する不当逮捕で気になったことがある。
万平が当時、多くの日本人が悩まされていた栄養失調を解消すべく栄養食品を製造販売する場面。
これが当たって、相当な稼ぎ頭となった万平の会社が脱税疑惑によって、社長の万平自身が投獄されてしまう。
GHQの裁判は軍事裁判であり、不服申し立てができない。
万平への疑惑の根拠は、恵まれない社員に夜学に通わせてやるという立花夫妻の親心から、一時金として多額の学費が万平の会社から社員に支払われたことらしい。
そのことが社員への「給与」と判断され、万平たちが納税を逃れるために企てたと当局がにらんだのである。
つまりはGHQによる「脱税に対する見せしめ逮捕」を政府の税務局(現国税局)にさせたものだった。
万平が当時、有名人で「成功者」であったことからGHQに目をつけられたと東弁護士が接見のときに万平に伝えた。
摘発した税務局の役人が、実は、GHQから追徴課税のノルマを科せられていたために阿漕(あこぎ)な態度に出ていたように描かれていた。

だいたい日本の占領下の状況はどうだったのだろうか?
押し付け憲法だの、財閥解体だの、農地解放だのが言い伝えられているが、私にはまったくといっていいほどこのころの日本史について空白だった。

戦後日本の土台を作った時期と考えられるが、第二次世界大戦に敗北した他の枢軸国と違って、日本政府が「無傷」だったことから、GHQが日本を間接統治する形でおこなったのがいわゆる占領政治だった。
なにゆえ「間接」だというのかというと、日本政府がポツダム宣言を受諾して、ポツダム命令によって自主的に軍国主義を解体して民主的な平和国家を築いていくという表向きな行為を、間接的に連合国のアメリカの軍隊がサポートする(内政に干渉する)ということを言っているのである。
アメリカ軍が「内政干渉を「間接的に」しますよ」と言っているのだった。
確認しておくが、GHQは軍である。
アメリカの押し付け政治が軍によっておこなわれたことに、私は一抹の疑念を感じる。
のちの極東軍事裁判も「軍事裁判」という形でおこなわれたことは、極めて不公平で制裁的色彩の濃いものだったではないか。
もとより負けた日本にとって、何を言っても受け入れてもらえないだろうが。

GHQの間接統治をもう少し詳しくみてみよう。
1945年8月14日に日本政府はポツダム宣言を受諾する旨、連合国側に通告した。この日、ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官に任命された。
翌8月15日に「玉音」が放送され、広く国民に日本が戦争に負けたことを天皇が認めたと知らしめた。
この日に鈴木貫太郎内閣は総辞職する。17日に東久邇宮内閣が成立するまで無政府状態になる。
8月30日にマッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。彼は横浜税関の建物を接収しそこに司令部を置いた。
同年9月2日 アメリカ海軍の戦艦「ミズーリ」の甲板で、日本の全権が降伏文書に調印した。この文書の中に「連合国軍最高司令官に従う」と明記されていたため、以後、占領下において日本政府は統治能力を連合国に奪われてしまうのである。

よくこの「降伏文書調印」によって「日本は無条件降伏を受け入れた」とされているが、事実とは異なるようだ。
ナチスドイツのような降伏を「無条件降伏」というのであって、日本の「降伏文書」はポツダム宣言を受け入れて、その義務を履行するために連合国軍最高司令に従うとしか書かれていないことを根拠として「無条件ではなく条件付きの降伏だ」というのだ(青山武憲、渡辺昇一、高橋正俊など)。

私は、無条件か条件付きかは、この際、あまり重要なことではないと思っている。
このようなことは、受け取り方でどうとでもなるからだ。
何度も言うように、日本が戦争に負け、文句を言える筋合いではなくなったということがはっきりしているのだから。

国際法上は、日本の戦争状態が1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効の日まで続いていたことになる。
その間は、日米はともに武力を伴わない戦争を続けていたわけで、それが「占領下」だったのだ。

昭和20年9月中に占領軍は都内の主だった施設を次々に接収した。
また日本人の言論を統制し、出版物の検閲を厳しく行うことになる。
たとえば、朝日新聞は二日間の発行停止を食らったくらいだ。

9月27日に昭和天皇とマッカーサー元帥の会談が、秘密裡におこなわれた。
あの「屈辱的ツーショット写真」はこの時に撮影されたのだろう。
でっかいマッカーサー元帥と、ちんちくりんな昭和天皇が並んで写っているものだ。

10月9日、東久邇宮内閣が総辞職し、幣原喜重郎内閣が発足する。
この年に、つぎつぎにGHQは内政干渉を進め、女性解放、女性に参政権付与や児童福祉法、労働組合組織化、学校教育の法制を指示するのである。
戦後日本では当たり前のことが、GHQの指示によって法的に整備され、民主国家への政府の構造改革も進むのだった。
そして財閥の解体や農地解放にも積極的にGHQが関与し、旧華族の財産を凍結したりした。
こうして、軍国主義的な教育や思想はことごとく禁じられ、民主的な政治、自治を促した。
あの「将棋」でさえ野蛮な遊戯だとしてGHQは禁じようとしたのだが、升田幸三が「チェスのほうが取った駒を殺し、果てはキングをクィーンが守るという、あなた方のレディファーストの精神にもとるゲームではないか」と一蹴し、将棋が守られたというエピソードもある。

戦犯狩りも厳しくおこなわれ、軍属の人々の公職追放もおこなわれた。
1946年2月3日にはマッカーサーがホイットニー民政局長に憲法草案を示す。
13日には吉田茂も、この草案を見たといい、3月6日には主権在民(国民主権)、象徴天皇、戦争放棄を盛り込んだ憲法草案を政府案として公表した。
この憲法草案によって、日本の国体を護持することは、叶った形にはなった。
つまり、天皇陛下を戦犯に問わないという暗黙の了解が得られた結果となった。
5月3日に極東国際軍事裁判が開廷する。

11月3日に日本国憲法が公布される。
1947年5月3日 日本国憲法が施行される(憲法記念日)
1948年11月12日 A級戦犯25人に有罪判決、東條英機、板垣征四郎、廣田弘毅ら7人に死刑判決が下された。年内に彼らの死刑執行がなされた。
A級戦犯らはいずれも、天皇への戦争責任について言及せず、すべて軍人にその責任があると口をそろえたのである。
こうして天皇の戦争責任は追及されず、以後、天皇は政治に不関与、国民統合の象徴として位置づけられることになった。
1949年3月 ジョセフ・ドッジGHQ経済顧問が政府予算案編成を指示する。
同年9月 シャウプ勧告(税制の抜本改革案)が公表される。
同年11月 日米講和の内容に領土割譲、賠償の請求がないことが明らかになる。
1950年6月 マッカーサーが日本共産党中央委員を追放する。
同月25日 朝鮮動乱が勃発
同年7月 マッカーサーが吉田茂首相に警察予備隊新設と海上保安庁増員を命じる。警察予備隊がのちの自衛隊の始まりである。このころからGHQのレッドパージが激しくなり、GHQの日本共産党への干渉、摘発、逮捕が増加する。
同年8月10日 警察予備隊が置かれる。日本の再軍備が始まった。
同年9月24日 トルーマン大統領の対日講和、日米安保条約の締結交渉が模索される。ここで賠償請求権をアメリカが放棄し、日本の防衛を日米共同でおこなう旨などが折衝されるのだった。
沖縄や小笠原諸島がアメリカの統治下におかれ、軍事基地も東西冷戦を見込んで整備されることになり、日本はそのために「思いやり予算」を特別に支弁し、その密約が交わされたのである。
1951年1月 朝鮮動乱の激しさが増し、マッカーサーは日本の再軍備の必要性を説く。
同年4月マッカーサーは朝鮮戦争の作戦をめぐりトルーマン大統領と反目し、GHQ司令官の職を解かれることになり、16日アメリカに帰国する。代わりにリッジウェイ大将が司令に就任。
9月8日 サンフランシスコ講和条約を日本が調印し、併せて日米安保条約にも調印した。
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効し、アメリカ軍の占領統治が終了するが、沖縄と小笠原諸島の占領は続く。

アメリカ軍、とくにマッカーサー元帥は日本の軍国主義を潰えさせようと、あらゆる手段で思想工作を行ったのである、
そのためには、報道の自由や出版の自由、表現の自由などはおかまいなしに、検閲を行い、見せしめ逮捕をおこなった。
また財政健全化を強硬に実施するために、蓄財行為や利益追求という資本主義なら当たり前の経済活動を「脱税」として摘発し、その追徴課税で増収をもくろみ、また見せしめとして不当な逮捕、起訴が米軍の指示で「間接的」に税務局におこなわせたようである。
『まんぷく』で描かれているようなことは決して誇張ではないらしい。
税務局職員に摘発ノルマがあったのかどうかは、私にはわからなかった。

米軍による日本の「占領統治」とは、国際法上はハーグ陸戦法規に従うことになっており、その43条によれば占領軍が被占領国の法制度を改変することはしてはならないとされているのに、米軍GHQはどしどし日本の法制度に手を加え、政治の構造自体を改変させてしまっている。
表面上は、アメリカ軍は日本の法に手を加えたとせず、日本が自主的に、アメリカの指導で法の改正を行ったことになっているところがあざといわけである。
押し付け憲法もなにもかも、結果が日本にとって良かったとしても、そのやり方には多分に問題があったのだが、敗戦国日本にはそのことに反論を加えることはできなかった。
その一つの理由に「国体護持」の希求があった。
アメリカは「国体護持(天皇の戦争責任を不問とする)の要求」を質にとって、日本への政治介入を積極的におこなったといってよい。
負けた日本は、賠償責任も、国土の割譲も要求されれば異議を唱えられない立場にあったけれども、アメリカは日本政府の恭順の態度を重く見、また、ソ連への牽制、共産主義の台頭に脅威を感じており、日本を早くアメリカの属国にしてしまいたいという意向も働き、アメリカにとってわけの分からない「国体護持」を日本が強く求めるので、やむなく飲んだ形になっているのだった。
「国体護持」が日本の覇権主義や軍国主義の根底にあるのではないかという懸念はマッカーサーにもあり、日本人にこれを捨てさせたく思っていたのにもかかわらず、それが容易でないこともよく知っていた。

アメリカの日本の教育への干渉も、かなり強いものだった。
学習院大学の歴史教員は更迭され、教育現場から駆逐された。
児玉幸多(こだまこうた)教授などは典型的な被害者である。

占領時代に朝鮮戦争が勃発したことも、マッカーサーに大きな影響をもたらした。
マッカーサーは韓国軍支援のための米軍司令官も兼任しており、遠い東京から米軍を指揮していた。
そのため、まずい作戦指示もあり、ソ連の支援を受けた北朝鮮軍に押しまくられることになる。
一方で、中国大陸では中国共産党が躍進して、北朝鮮に肩入れしてくるなど、共産主義の台頭から、アメリカ本国でもマッカーシズム(ジョセフ・マッカーシー共和党上院議員が中心となった赤狩り)のレッドパージ(赤狩り)が激しくなるわけだ。
日本の再軍備を許容する方向転換をマッカーサー元帥が言い出すのも無理のないことだった。
朝鮮動乱はついに膠着状態となり、世界は東西冷戦という極めて不安定な状況に置かれることになる。
米中は主義主張を異にし、ソ連と同じく対立した。
日本はその間に挟まって、米軍の前線基地と位置付けられることになる。

マッカーサー元帥は日本の共産党への圧力を強め、彼らの公職からの追放を積極的におこなった。反対に、公職を追われた保守系の政治家を召喚する動きを見せる。

日本の言論界はマッカーサーの弾圧に耐えかね、左派勢力は反米に傾斜していくわけだだ。
のちの五十五年体制や、日米安保反対の学生運動につながるのである。
安倍政権(超保守派)の親米政策は、マッカーサーの占領統治以来の伝統だった。