牛鬼(うしおに、ぎゅうき)は各地にその伝説を遺すが、なかでも伊勢の山奥の三重県多気郡大台町大杉の「牛鬼淵」に伝わる話が有名で、『まんが日本昔ばなし』でも取り上げられた。

水木しげるの漫画『鬼太郎夜話』にも「有馬凡(ありまぼん)」博士が牛鬼を探して、身を挺して牛鬼にたどり着き命を落とす場面があった。

伊勢の昔ばなしでは樵(きこり)の親子が牛鬼に遭遇するというものだ。
樵の父は老齢で、息子はまだ若造であり、修行の身で父を助けている。
ただ、あまり熱心な仕事ぶりではなく、夜な夜な、仕事小屋で父は鋸(のこ)を手入れに余念がないが、息子は酒を囲炉裏端で喰らう生活だ。

牛鬼淵の近所の山で、父子が木の伐採に精を出していた。
ある夜、戸口に男が訪ねてくる。
小屋には筵(むしろ)を簾(すだれ)にして夜風を防いでいるが、その隙間から覗く男がいた。
「何をしとるんじゃ?」
「木が硬いんで、鋸の刃がすぐに傷むから手入れをしとるんだ」
「その鋸は木を挽くためのものなのか?」
「そうじゃ…だども、この三十二番目の刃は牛鬼が出てきたときにその牛鬼を挽くための刃なんじゃ」
「…」
怪しい男は、その父の言葉を聞くと、消え入るようにいなくなった。
父親の話では、木挽き鋸の最後の刃(切っ先から数えて三十二番目だという)は、鬼の首を挽くための魔除けの刃なのだということだった。
怪しい男は、毎晩小屋にやってきて、父が同じ話をすると、音もなく去っていくのを繰り返した。
息子も訝(いぶか)しんだが、なにも男がしないので気に留めなくなった。

その日は、杉の大木をやっつけようとしていたが、その杉にたいそう古い硬そうな太い木がからみつくように生えていたから、まずはその邪魔な木を先に伐採しようとしていた。
しかし、いっかな鋸が食いついて動かなくなる。
息子は力任せに鋸を挽き抜こうとするが、その途端、鬼刃と父が呼んでいる「三十二番目の刃」が根元から欠けてしまった。
「これは、いかん」父も血相を変えている。
二人は作業小屋にもどり、なんとか思案するが、結局、父が、
「里に出て、鍛冶屋に直してもらうことにしよう。お前もついてこい」
すると、息子は、
「なぁに、おやじがひとりで行けばいい。おらは留守番しとくから」
「牛鬼がでたらどうする?」
「おるか、そんなもん」と、取り合わない。
「じゃあ、おれは山を下りるから、くれぐれも訪ねてきた者に鬼刃が欠けたことを言うでないぞ」
「わかっとるって」
心配しながらも、父親は鋸がないと仕事にならぬので、鋸を担ぎ山を急いで下りた。
その晩は、息子ひとりの留守番である。
火を焚き、魚を焼きながら、好きな酒を独り占めして飲んでいた。
そこへ、またあの男が訪ねてきた。
「今日は、お前ひとりか?」
「なんだ、またあんたか。そうだよ。おやじは鬼刃が欠けたんで麓に鋸を直しに行った」
酔っている息子は「言ってはならない」ことを、口にしてしまう。
「そうか、今日は鋸がないのか。では」
男は、小屋の中に入ると、たちまち牛鬼に変身した。
泡を食った息子は、何とか小屋から逃げ出すも、牛鬼は執拗に追ってくる。
目の前は牛鬼淵と呼ばれる、鏡のような水面を湛(たた)えた池だった。
その水面にはまぶしいばかりの満月が映っている。
息子の背中には牛鬼が迫っていた。
息子は、淵に中に足を踏み入れ、深みへ逃げようとする。
牛鬼が覆いかぶさるように、息子を淵に引き込んだ。
二度と、息子は浮き上がることはなかった。
夜が明けて、父が小屋に戻ると息子がいない。
「さては…」
父の予感は的中し、急いで牛鬼淵の岸辺に向かった。
そこには、息子の着物が浮いていたが、息子の体は無かった。

というのがお話の概略です。
私は、この話が伊勢の奥地で伝わることに、あることとの関連を想起した。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)とその弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神話である。
伊勢神宮は知られているように、天照大御神が祭神であり、日本の神社の総本山である。
そしてその弟は素戔嗚尊といい、乱暴者でその狼藉の数々が改まらないために、姉の天照大御神より天界から追放処分を受ける。
そのスサノオを祀るのが京都の祇園にある八坂神社であることも、よく知られているけれど、八坂神社の祭神がスサノオの別名「牛頭天王(ごずてんのう)」であることは知られていない。
これは朝鮮半島に伝わる「蘇民将来」の話に出てくる「武塔神(むとうのかみ)」と「牛頭天王」を同一視していると言われ、八坂神社の祭りである祇園祭で長刀鉾が撒く粽(ちまき)に「蘇民将来」の札が貼ってあることと関係がある。
さて「牛頭天王」はその名の通り、牛の頭を持つ「ミノタウロス」風の神だそうだ。
日本書紀に、今の敦賀(つるが)あたりに朝鮮半島から漂着した「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」という男の話がある。
「敦賀」という地名の語源伝説であるが、「ツヌガアラシト」とは「角があるひと」という意味でもある。
※「アラシト」は天皇が「現人神(あらひとがみ)」と言われていることと通底するのかもしれず、天皇家の親王が「~仁(ひと)」という諱(いみな)がつくのと関係があるのかもしれない。
「ツヌガアラシト」こそ「牛頭天王」だというのだ。
そうすると、高天原(たかまがはら)を追われたスサノオが牛頭天王だという伝説はこじつけだったとしても、スサノオの頭に牛のような角があったからこのような伝説が伝わっているのではなかろうか?
スサノオ=牛頭天王=ツヌガアラシト=牛鬼
そして「件(くだん)」という牛の頭を持った人の話は、この漢字が示すように、ごくまれに、角のある赤子が生まれたことを伝える。
小松左京のSF『くだんのはは』でも取り上げられた。

伊勢の山奥の「牛鬼」は、姉から冷遇された弟、スサノオの変わり果てた姿だったのかもしれない。
そして姉の住む高天原は、朝鮮半島のことだったのかもしれない。