『底のぬけた柄杓ー憂愁の俳人たちー』(吉屋信子、新潮社刊)の中に「墨堤に消ゆ」という章がある。
この本は、私が三つぐらいの頃に母が買ったものらしい。
母は俳諧に興味があったらしく、子規や虚子、はたまた蕪村や芭蕉、一茶の本もよく読んでいたようだ。
この章には富田木歩という夭折の俳人について書かれている。
吉屋(きちや)さんが、いろんな俳人を訪ねて一章を成す形式、つまりアンソロジーの一種である。

富田木歩は本名を富田一(はじめ)といい、俳号を最初、吟波(ぎんぱ)としていたが、後に述べる事情から「木歩(もっぽ)」とした。
東京の下町、向島花柳界の生まれだが、生まれた時からかなりの貧乏だった。
両親にあまり学がなく、遊びがちな体たらくで、子沢山という最悪の家柄だった。
一(はじめ)の祖父に当たる人はたいそう資産家だったようだが、彼の父が浪費家、博徒で、すぐに零落してしまった。
零落しつくしたときにできた子が一だったのだ。
両親は散財の挙句、花街のはずれで鰻屋を営む。
それで食いつなぐ毎日だったけれど、もとより商売下手な両親である、儲けること能わず、子供ばかり次々に生まれる始末だった。
そんな中で生を受けた一は、まもなく高熱に冒され、さらに悪いことに両足が不自由になってしまう。
脚が細く、まったく肉がつかないのである。
とうとう「いざり」として生涯を送ることになるのである。
また、そのあとに生まれた弟も聾唖だった…

そんな体であるから、親も学校にやらず、一は姉兄弟らから遊びで言葉や文字を覚える。
もとより、利発な面があり、巌谷小波の子供向け小説などを読みふけり、小波の俳句に接したことから俳句の世界に魅了されるのだった。
それからというもの、自分の境遇に悲観することもなく、貧しいながらも句作に励み、十代で「ホトトギス」に投句、入選し注目を浴びる。
父の鰻屋はつぶれかけ、長男夫婦が支え、姉や妹たちも花柳界で稼ぐというどん底で、一は友禅染の仕事に就くが、もとより不具者に冷たい世界、年下の兄弟子、土手米造には優しくしてもらえた。
土手はしばらく郷里の広島に下がるが、一もいじめに耐えかね兄夫婦の鰻屋に舞い戻る。
もはや、一人前に働くことは、一にとって不可能に近かった。
家人もそれはよくわかっており、聾唖の従兄に面倒を見てもらいながら、読書と俳句に没頭した。
それにしても富田の一族には障碍者が多くいる。遺伝的な作用があったのだろうか?
近所の人々も「捌いたうなぎの祟りで、不具者ばっかり生まれるんだ」と、ひどいことを噂する向きもあったくらいだ。
そんな差別にも負けなかった一は、ある日、端材で木工を企てる。
母が「なんだい?それは」「松葉づえさ」「歩こうってのかい?」「松葉づえは高くって買えないから、おいらが自分で作るのさ」「あれまぁ」
そうやって、出来上がった「松葉づえ」を一が使おうとしたとたん、一は、つえもろとも崩れ落ち、つえもばらばらになった。
なにも作りが悪かったのではない。
一の両足は一瞬たりとも、立っていられないくらいに弱り切っていたのが原因だった。
見ていた母も泣いて、言葉もなかった。
なんという哀れな話だろう。
明治時代はまだまだ弱者が生きにくい時代だった。
しかし、一はくじけなかった。
これを機に「吟波」という俳号を「木歩」と改めた。
富田木歩…松葉づえを諦めた一が、俳句を生きる「杖(つえ)」として再出発したのである。
「木で歩む」とは彼なりの皮肉だったが、決して腐らない、いい男なのだ。

一が俳壇にデビューし、評判も上がってくるころ、一の家では母親が駄菓子屋を娘たちの助けで開くようになった。
この家は、鰻屋を兄夫婦が切り盛りするかたわら、手狭になったので別居してもらうために兄が借り上げてくれたものらしい。
その駄菓子屋の中で、一は「小梅吟社」という俳句同人を主宰する。
そこに集う者は、あの土手君を始め、かつて友禅工房で、一をいじめていた仲間も加わってきた。
もう、一、いや木歩を師と仰ぎ、バカにするものはひとりもいなかった。

菓子買はぬ子の はぢらひや 簾影 (木歩)

お金を持っていないのか、お菓子を買えない子が、もじもじしながら簾(すだれ)に影を落としている…そんな子供にも優しい目を配る木歩だった。

慶応の学生で、木歩と同い年の新井義武(新井声風)が木歩を訪ねた。
新井は臼田亜浪門下の俳人であり、木歩が「吟波」と号していたころからその俳句に注目しており、かねてから木歩に会いたがっていた。
新井は慶応の学生であるから、家柄もたいしたもので、木歩とは雲泥の差である。
確かに木歩の家を訪ねた新井は、驚いたに違いない。
しかし、その傾いたような駄菓子屋に堂々と「小梅吟社」の銘板が掲げられ、外にはみ出すほどの、木歩を慕う俳人たちが集っている盛況ぶりをみて、そんな偏見も吹っ飛んだ。
そしてすぐに新井声風と富田木歩は知己となるのである。
小学校にもいかず、それでも生き生きと言葉を操る富田木歩と、超エリートの新井声風の取り合わせは奇妙奇天烈だけれども、同好の士、肝胆相照らす仲になるのは自然の理であろう。

ゆく年や われにもひとり女弟子 (木歩)

二十歳になった木歩にも、語り合う女性ができたようだ。

この時代、貧しい暮らしぶりからくる肺病が木歩を襲う。
激しい喀血を繰り返していた。
足の不自由な木歩の唯一の長距離移動手段は人力車だったという。
田中良助なる車夫が、献身的に木歩の足となってくれた。
りょうさん、つまり田中良助は、車以外に木歩を負ぶって、階段を上がってもくれた。
風景の良いところに、りょうさんが、晴れた日には連れて行ってくれるのである。
今と違って、障碍者には生きづらい時代だったはずが、木歩の周りには同情を寄せ、なにくれとなく協力を惜しまない人々がいてくれた。
まことに、木歩にとって幸運だったと思う。
木歩の姉は、ある金持ちの妾になっていた。
それが富田家のもっとも出世した姿だった。
その妾宅に、肺を患った木歩と老いた母親が住まわせてもらえることになった。
弟や妹はすでに早世してしまっていたぶん、身軽になっていた、

木歩は、やはり若い男性であるから、恋もする。
しかし、不具の体ではすべて片恋に終わるのが常だった。
母親でさえ「いっちゃん(一のこと)のお嫁には孤児院からでも貰ってこなくちゃ」などと心無いことを言う。
ひどく傷ついたであろう木歩は、しかし、面(おもて)には出さなかった。
「この寂しさに堪えるのも俳人の一つの修行です」と友人の手紙にしたためている。

木歩が、俳諧の重鎮渡辺水巴によって世の中に紹介される光栄を得た。
水巴主宰の「曲水」という同人誌に「木歩句集」が連載されたのである。
それは陰で新井声風が強力に水巴にプッシュしたことによるものだった。
木歩は、姉の力添えで玉の井あたりで古本屋を始める。
向島の花街を出て、一般の町で生活し、読書三昧、俳句三昧に暮らすことは木歩を、一段と進歩させた。
とはいえ「玉の井」だって、荷風の「墨東奇譚」でも有名な花街であったが…
息子を不具で生み育て、学が無いなりに陰ひなたになって庇護してくれた母が脳溢血であっけなく逝ってしまったのもこのころだった。
不具者の息子に心無い、不躾な言葉を投げたのも他意はなかったのだと思う。彼女なりの愛情の表現だったのだろう。

優れた俳人には、周りがなにくれとなく世話を焼き、独り立ちさせようとしてくれる。
決して憐憫の情だけではく、敬意をもってそうするのだった。
水巴、亜浪、声風らが句会を開き、その短冊を集めて十枚一組にして売り、その売り上げ二百五十円也を木歩君に進呈し、今後の療養生活に役立てて俳句に勤しんでもらいたいとしたことも、そのような仲間の気持ちの表れであろう。
このようなことは、尾崎放哉の話でもあった。
放哉が勝手気ままに、俳句をつくり、生活しえたのも師匠の荻原井泉水の献身がなくてはならなかったし、彼が小豆島に渡り、そこの篤志家に世話になったのもそうだ。
ただ、木歩と放哉では人間の中身が違うと思う。
放哉は超がつくほどのエリート出身であり、それをかなぐり捨てて俳句の世界に身を投じたが、なにかにつけて自分本位であった。

大正十二年の九月一日、あの関東大震災が東京を襲った。
両足の動かない木歩はどうなっただろう。
生き延びた新井声風が吉屋信子に証言している。
声風は地震のあと、すぐに木歩のことが気がかりで彼の家に向かった。
木歩の姉に訊いても彼のことはわからないという。
火の回りが激しく、あちこちで火の手が上がり、灼熱地獄だった。
地面は大きく割れ、電柱は倒壊し、家も何もかもが原形をとどめないほどにつぶされている。
そして時折来る余震におびえながら、声風は木歩を探し回った。
木歩の古本屋「平和堂」にやっとのことでたどり着くと、はたして、木歩はそこにはいなかった。
声風は、無我夢中であたりを探すが、牛の御前(ごぜん)の堤の桜の木の下に茣蓙を敷いて木歩が座っていた。
どうやら、木歩の妹の静(しずか)と芸子たちが助けてここまで連れてきたようだった。
しかしここにいても火の手はぐんぐん近づいてくる。
もはや、逃げ遅れの状況が濃かった。
「よし、ぼくが負ぶっていく」と声風が放心状態の木歩を背負い、隅田川のほうに向かった。
どこもかしこも人の海で、逃げおおせるのか、いったいどこへ向かっているのか皆目わからない。
「この天才を、ぼくが守るのだ」
声風は使命感に燃えた。
とたんに、自分たちが孤立していることに気づく。
気づくのが遅かった。
火柱が間近に迫り、熱風がほほを焼く。
熱い、熱い、熱い!
水だ、水だ、水はどこだ?
焼け落ちる家屋が、さらに大きな火柱となって声風たちを阻む。
やっと二人は河畔に出たが、このままでは水の中に入るしかなかった。
後ろは火の壁である。
見れば、ほかの避難者も次々に川に入っていくではないか。
自分一人ならなんとか対岸に泳ぎつけもしよう。
今は、木歩を背負っているのだ。
このまま水に入れば共倒れになること必定。
火は背後に迫っている。
「木歩君、もはやどうしようもない。今生の別れだ」
木歩は悟ったのか、ひしと声風の手を握り、離した。
「行け、新井君。おれにはもう先がない、この体では無理だ。君はまだ生きねばならない」
断腸の思いで声風はその手を離し、泳いだ。
もう、後ろを振り返らなかった。

老いた声風先生は、そういって涙を流された。
木歩の亡骸は見つからなかったが、犠牲者がまとめて焼かれ、その灰を姉や兄夫婦が持ち帰り、木歩の墓とした。

天才俳人、富田木歩はこうして震災の灰燼と帰したが、その精神は今も受け継がれている。
忘れてはならない俳人の一人だと、私は思っている。

そしてロスジェネ諸君、貧困だの、格差社会だのと嘆くよりも、こういった才能の開花のさせ方もあるのだということを知ってほしい。
弱者が新たな被差別者を下に作って、嘲笑う世の中はよくない。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」である。
どうもロスジェネ諸君は、弱者に心を寄せるような言葉を吐きながら、一方で障碍者やLGBTは生産性がないとか、生活保護受給者は怠け者だとか、ネットでささやくではないか。

われわれ、バブル世代やその上の団塊世代は、さほど弱者を罵ったりしない。
いい目をした世代だから余裕があるのかもしれないけれど、格差はどの時代でもあるのだ。
生まれ落ちた時から貧富の差があるものだ。
そこを克服するのはやはり本人の自覚と運と、努力だと思う。
ある意味「自己責任」であるのは、誰が見ても明らかだろう。

時代や制度、人のせいにするのが一番よくない。