高校生ぐらいに数学を教えるときに、なるべく「公理系」で説明することにしている。
数学の記述は「公理」で進めないと説得力がなくなり、すべての学問の基本的な話法となっている。
命題を与え、仮定を立てて、公理と定理と定義で証明していくことを「公理系」と言うのだと思います。
本当はもっと適切な公理系の説明があるでしょうが、私の理解はその程度です。
かくいう私も公理系に触れたのは大学初年の「線形代数学」でありました。

線形代数は代数学をさらに抽象化したもので、公理系で説明されるのです。

「公理」とは英語で「axiom」といい、哲学を修めた人なら良くご存知かと思います。
数学が論理学や哲学の一形式というか一分野であるのだから、それが公理系で記述されるのは、もとより当たり前であり、ギリシャ哲学以来の伝統です。
「公理」は与えられた命題を証明するときに、前提として設定される「仮定」なのだと説明されます。
「公の理」、人々が様々な観察や経験から当然そうであらねばならないという決まり事を言うのだと思います。
もちろん「公理」そのものを証明することもできます。なぜなら、先にも書いたように「公理」は「仮定」だからです。
またユークリッド空間での「公理系」と非ユークリッド空間での「公理系」は異なっています。
このようにどのような「公理系」での議論であるかをはっきりさせてから数学は語られなければ意味がありません。
平面といっても、ユークリッド平面と球面三角法なら話がかみ合わないでしょうし、二次元平面上の議論を三次元空間に拡張できるかどうかは、再度検討せねばいけません。

公理は一つだけで議論されることはまれで、いくつかの有用な公理がまとまって体系をなしているので「公理系」と呼ぶのです。
そして「公理」から演繹される命題を「定理」といって、小学校でも習うものです。
三角形の合同の定理は「点」や「直線」などの「定義」から導かれます。
「定義」とはこれから議論に使う言葉の意味付けをする記述を言い、証明を要しないのは、その前提として矛盾を含まない記述だからだと言われます。
たとえば、
「点は、線の境界であり、点には位置だけがあって大きさはない」とか「0!=1である」というようなものです。
そして、特に理由を述べないでも「真」であると認める記述を「公理」とします。
あえて証明をしないで公理を使うことを許可されていますが、証明をしようとすればできるものです。

命題(proposition)とは真偽判定の対象となる記述をいいます。その命題が真であるか偽であるかは問題ではありません。
仮定または仮説(hypothesis)とは、命題の真偽判定を証明するために立てる推定です。
いうなれば仮定も命題の一種であります。

真偽判定が証明された記述は、以後、定理として議論に使用することができます。

このように命題や仮定から公理や定理、すでに定まった定義を使って真偽を判定し、新たな定理を導くことが数学や哲学の知的作業なのだということを学生さんに、ぜひ知っていただきたい。

この方法論は科学全般に生かされ、不正や誤謬を正し、合理的で理性的な判断ができるようになるのです。
また精神論が陥りがちな「やってやれないことはない」「やればできる」などという根拠のない叱咤激励に惑わされない自分を築くことができます。
強い自我は、公理系が構築するのです。
弱い自我は、公理系が成っていない。

いじめや戦争が公理系の下で、いかに無意味で、無価値なものかは、わかろうというもの。
もちろん詭弁を弄して、「いじめ必要論」とか、「戦争有益論」が構築されないとは言えない。
そこも論理で打破できるはずです。

ソクラテスが彼の弁明の中で、詭弁や、いわれのない冤罪に最後まで理性で論破し、毒杯を呷(あお)った。
聴衆は彼の弁明を詭弁だとして、最後まで受け入れなかったかにみえた。
しかし彼の死をもって、自分の心にやましいところを見せつけられた人々によって、「ソクラテスの弁明」は記述され今に残っている。
もし詭弁の記録なら残らなかっただろう。
いつの世にも「正しいこと」を言われると耳が痛いものだ。

ただ、「正論」ばかり聞かされるほうも窮屈でならない。

数学や哲学が一般に嫌われるのは、じつは「清廉すぎる」からではないだろうか?
高校生諸君、そうではないかね?
「ちょいワル」のほうがかっこいいもんな。