種田山頭火が北九州を行脚していたころ、そろそろ落ち着きたいという気持ちが湧いてきたらしい。
彼も五十に届き、当時なら老齢の域に達しようとしていた。
酒におぼれ、不摂生な行乞生活だから、歯は抜け、物も噛めない。
旅の途中でよく熱を出し、それでも酒で振り切って生きてきた。
大正十五年から旅の生活を始め、もうすぐ七年になろうというときである。
彼は故郷の山口県にまで足を延ばしていた。
妻咲野(さきの)とは遠(とお)に離縁していたが、息子の健とともに葉書のやり取りがあり、咲野は、山頭火になにくれとなく世話を焼いてくれていた。

山頭火はついに、山口県豊浦郡で景色の良い川棚(かわだな)という町に至り、妙青寺の敷地を借用して庵を結ぼうと決心したらしい。
山頭火の同人たちも、彼がついに結庵(けちあん)するというので好意的に協力した。
咲野も、そのために生活に必要な家財道具といくばくかの金、義母(自殺した山頭火の母)の位牌などを送ってよこした。
しかし、この夢はかなわなかったのである。
縁もゆかりもない川棚の町で、妙青寺の檀家総代の地主がいい顔をしなかったのだった。
乞食坊主に死なれでもしたら…という憂いがあったのだろうか?
後に、この乞食坊主が有名な山頭火だったことを川棚の人々は悔やんだという。

山頭火は使えるものはみんな拾ってくる生活をしていた。
食べるものや、酒は行乞でまかなっていた。
結庵の費用は後援会が用立ててくれたものの、この川棚逗留の間に尽きてしまったのだ。
茶碗や鍋、駅弁とともに売られていたお茶の急須は陶器製で、その蓋が湯飲みになっているのだが、それが線路沿いに捨てられているのをたくさん拾って保管していたそうだ。
これは好きな酒を飲む際のぐい飲み代わりになったようである。
ある日、女が使ったのだろう、脂粉のガラス瓶を拾った。
中身は空だが、その香りに山頭火の体が反応した。
その夜、彼は夢精をしてしまい、落ち込んでしまったそうだ。
まだ、彼にも男の部分が残っており、熾火がいこり始めてしまったのだろう。
切ないね。まだ五十だもんね。

山頭火はしぶしぶ、川棚を後にして、故郷の小郡に先祖の墓参りをした。
墓は荒れ放題で、山頭火は涙しながら、これまでの不孝を悔やんで経を上げた。

この頃(昭和七年)「山頭火後援会」なるものがすでにできており、山頭火は荻原井泉水などから高く評価されていた。
山頭火を慕う者が寄ってたかって、彼の結庵を世話したようである。
なかでも、国森樹明氏が中心になって、山頭火に古家を周旋した。
また国森氏は農学校の教師であり、その生徒を使って、古家の改装を自ら指揮した。
この庵は、山頭火が、かねがね考えていた禅語から「其中庵(ごちゅうあん)」と命名された。

『俳人山頭火の生涯』の著者、大山澄太氏も山頭火をよく知る人物であり、彼の庵に訪れたり、大山氏の家に山頭火を招いて泊まらせたりした仲だったようだ。

うつりきて お彼岸花の花ざかり (山頭火)

其中庵に移り住んだのは秋たけなわの頃だったのだろう。

朝焼 雨ふる 大根まかう(撒こう) (山頭火)

庵の裏手に猫の額ほどの畑地があり、そこで国森氏の農学校から大根の種などをもらい、耕して種をまいて自給自足を企てたのだろうか。
とにかく、山頭火は大地に根を下ろしたのだった。
もう漂泊の旅にはでたくない…そう思ったのだろうか?

旅への思慕は、そう簡単には無くならないのである。
山頭火はまた東への旅に出る。
ただそれは、これまでのあてのない旅ではなく、同人や、知人を訪ねて、たどる旅であった。
彼の行くところ、同好の士が集い、酒盛りと句会が催された。
途中は、鉄道も使うし、歩きもした。
気が向けば行乞もした。
そして信州まで至るのであった。
残念なことに信州で、熱を出して行倒れ、病院に収容されてしまう。

昭和七年(1932年)といえば、中国大陸では上海事変や満州国建国があり、日本では血盟団事件や五・一五事件で犬養毅が暗殺されたりで不穏な時期にさしかかっていた。
ドイツではナチスが政権を取り、世界にも政情不安が広がりつつあった。

山頭火が生きた時代は日本が太平洋戦争に突入するまでの、まだ人々に心の余裕があった時代だった。
もちろん、世界恐慌以来、関東大震災もあって、日本は経済的にかなり行き詰まっていた。
庶民は十分貧しく、山頭火のような生きざまが、ことさら特異な存在ではなかった。
ただ、物価が安かったことは、山頭火が何とか生きていけたことと無関係ではない。
日本酒が一升で1円80銭(約1800円ぐらいか?)、行商人などが定宿にする木賃宿代が30銭(300円くらいか?)、「其中庵」の借賃が特価で月額50銭(約500円)、味噌百匁7銭(70円)、ゴールデンバット1箱7銭(70円)、並み蕎麦一杯5銭(50円)、葉書一枚1銭5厘(約15円)等など。

10円の餞別で、汽車賃などが工面できたようなことが書かれていたので今の1万円くらいの値打ちがあったように考えられる。
大正時代の話になるが、そのころの消費者米価(キロ80銭~2円ぐらい)から計算すると10円が、だいたい今の30,000~35,000円ぐらいの価値になるようだ。
米価に幅があるのは第一次世界大戦やら昭和4年の恐慌で乱高下したからである。

山頭火の清貧(酒だけは止められなかったが)の生きざまに、感動すら覚える。
たしかに彼の身勝手はあるだろう。
俳句三昧で生きていけた彼の才能と人望もあった。
山頭火を評価し、援助を惜しまない同人たちがたくさんいたことは大きな支えであっただろう。
日本は戦争に突入していく世相を抱えていた。
大政翼賛会が政治を牛耳り、贅沢は敵であるとして監視社会が極まっていた。
そういう世相に山頭火の乞食のような生き方をする人は、あまり非難されなかったのかもしれない。
信心深い人がまだまだ多かった時代だからこそ行乞が尊ばれ、喜捨してくださる人が多かった。
蔑(さげす)まれることも当然あった。
しかし、山頭火は行者なのである。
禅を求道する者なのである。
蔑まれようが、虐げられようが、それは「行」なのだから、山頭火は苦にしない。
門付けで経を読み、去れと言われれば、おとなしく去るのである。

山頭火が俳句で名を上げる少し前になるが、小豆島で同じ自由律俳人の尾崎放哉が病没している。
山頭火も放哉も荻原井泉水(せいせんすい)の門下とされている。
放哉(ほうさい)もエリートの地位も、妻も捨てて、漂泊していた。
山頭火と決定的に違うのは、山頭火は感謝の内に過ごす生きざまなのに、放哉はまったくもって自己中心的であり、他者を見下すような、さすが帝大出身の俗物であった。

放哉は、没落の途にありながら、まだ、悪しきプライドにすがって生きていた。
山頭火だってプライドを持っていたはずだ。
それは、乞食ではない、行者であるというプライドだ。
この二人のプライドの持ち方を比べてみてほしい。

「放哉は孤独、山頭火は孤高」
この違いは、雲泥の差である。

今、孤独にさいなまれている人がますます引きこもっているという。
引きこもりは、社会から断絶され、自らも社会と没交渉である。
引きこもりの親兄弟は、腫れ物に触るように彼らを扱う。
被害妄想にかられ、社会への恨みが募る一人ぼっちの生き方は、精神衛生上、大変不健康である。
こういう生き方をしてしまった人に、種田山頭火の生き方に学んでほしい。
彼は決して孤独ではなかった。
しかし、社会からは明らかに落ちこぼれていた。
それでも、社会から情けを受けて生きながらえたのだった。
自ら選んだ道である。
母は井戸に身を投げて死んだ。
その遺体にすがって泣いた幼い日。
山頭火の晩年もその母の無念を思って、位牌を抱きながら旅路にあった。
幼いころの生い立ちはその人の将来に大きな影響を与えることは間違いない。
引きこもりや孤独な人々が、突然凶行に及ぶことは、そういう一人では抱えきれない「爆弾」を抱えているからかもしれない。

戦争に向かう日本にあって、山頭火は決して戦争賛美の句を詠まなかった。
多くの俳人や歌人が政府におもねる作品を残さざるを得なかったのにである。
むしろ、そういう理不尽に駆り出される庶民のつらさを句にしたためた。

いさましくも かなしくも 白い函(はこ) (山頭火)
街はおまつり お骨となつて帰られたか (山頭火)
その一片は ふるさとの土となる秋 (山頭火)
馬も召されて おぢいさんおばあさん (山頭火)
足は手は 支那に残してふたたび日本に (山頭火)

「白い函」とは、いうまでもなく「骨箱」であろう。
そうして祖国に帰った戦死者の遺骨は、ふるさとの土に帰るのだった。
農耕馬なども軍に召し上げられ、大陸に送られたという。
負傷兵も帰ってきたが、もがれた手足は遠い中国大陸に置いてきた…

山頭火の、そのまま切り取った描写がすさまじい。
戦争が、普通の人を犠牲にする。
自由律俳句だからこそ、悲しみがなまなましく心に届くのだ。
五七五の俳句では、どこか、のどかな感じがしてしまうだろう?

昭和十五年(1940年)の十月十一日に、山頭火は最後の安住の地、愛媛県松山の「一草庵」で脳溢血で倒れ、五十八歳の生涯を閉じた。
彼が太平洋戦争を見ずに亡くなったのは、せめてもの救いだったかもしれない。

私も、もうすぐ五十八であった。