「菅野くん、ビール空いてるがね。もう一杯いこう」
谷口課長が真っ赤な顔で勧める。
「あ、はあ」
あれから二週間たち、おれの歓迎会を第一製造課でやってくれたのだった。
稲田駅前の居酒屋「とことん」は、この太平機械工業の社員が良く使うらしい。
木下真帆さんを除く、課のみんなが参加した。
真帆さんは、子供がいるので、こういう飲み会には参加しないのである。
ただ会社のリクレーションには、娘さんを連れて必ず参加するんだそうだ。

「慣れたかい?」と課長
「ええ、まあ」
「うちの会社も、国内需要が減って来て、海外に向けて発奮せないかんから、きばってよ」
「はい」
「課長、いまやってるシノザキの機械は台湾向けですよね」と岡本さんが言う。
「ああいう依頼が増えてくる。マニュアルも英文で仕上げないと」
「英語だったら少しできます」とおれは酒の勢いで言ってしまった。
「へぇ、帰国子女かなんか?」
「そうじゃないですが、高専時代に半年、アメリカに留学しました」
「ほんとに!」とは岡本さんがびっくりしたように声を上げた。
「映画なんかだったら字幕なしにだいたいわかります」
「こりゃ、いい人材が入って来てくれたねぇ。兄貴にも言うとこう」
谷口課長の兄は、この会社の総務部長で、おれの面接をしてくれたひとだった。

このあと、岡本さんと山本さんは帰ってしまったので、谷口課長の行きつけのスナックに繰り出し、友田主任と荒木さんと小島さんとご一緒した。

あくる土曜日は二日酔いで明けた。
その月の給料日にこの会社での初月給をもらい、辞令として総務部出向を命じられた。
その理由は、おれの英語能力を買って、英文取扱説明書の作文を乞われたからだった。
空いた時間は、機械組み立てのために現場に戻って仕事をするのである。
山本さんが、
「すごいっすね、おれヨメとグァムに旅行に行きたいんだけど英語、教えてくださいよぉ」なんてことを言う。
「そんなにすごくできるわけじゃないです。日常会話程度なら」
「いやぁ、よかったぁ。カタカナで書いてもらえたらありがたいなぁ」
「あ、ああ、カタカナねぇ」
こりゃ、大変なことを引き受けた。おれは苦笑いをして、その場を去った。
グァムぐらいなら、日本語で十分通じるはずだ。

総務部では、主任の根岸律子さんと机を並べて仕事をすることになった。
根岸さんは、旦那さんと娘さんの三人暮らしだったのが、旦那さんが単身赴任で、二人暮らしになったと話していた。
娘さんも大学生で、近々、独り暮らしをするそうだ。
「さみしくなりますね」と言えば。
「せいせいするわ」
だそうだ。
根岸さんは、山登りが趣味で、休暇を取って友達と本格的な登山をするという。
「菅野君もやってみない?」
「山ですかぁ。荷物背負って大変でしょう」
「そんなの、最初だけ。あの満天の星を見たら疲れも吹っ飛ぶものよ」
「旦那さんとは行かないんですか?」
「あの人、だめだめ。趣味のない人だから」
「話、合わないんですか?」
「だから一人で、どこなと行ってくれるほうがいいのよ」
と、冷めた表情で言うのだった。
おれは英和辞典をもてあそびながら「山もいいな」と思っていた。
「今年はどこに登るんです?」と訊いてしまった。
「北アルプス縦走、行く?」
「おもしろそうだな」
「じゃ、決まり」
根岸さんは、にっこり笑っておれの手を握ってきた。
分厚い山女の手だった。