ふくらはぎに乳酸が溜まってきたのか、痙攣しそうだった。
斜面を登るのでどうしても前かがみになる。
背中の荷物がおれを押しつぶそうとするようだ。

そして杉本さんが言っていたように息が苦しい。
頭痛もするので、高山病になりかけのなのかもしれなかった。
足元は岩がちになり、ハイマツがみられるようになっていた。
燕岳(つばくろだけ)は目前なのだが、足が重く進まない。
「休もうか?菅野君」
「いいですか?」おれは、ちょっと気分を変えたかった。
まだ歩けはするだろうが、気持ちが続かない。
「いいよ。そこに座ろ」
おれは無言で背中の荷物を下ろし、ちょうどいい岩に腰かけた。
「はい、飲みなさい」
杉本さんの水筒が渡された。
「あ、おれのありますし」「いいから」「じゃ…」
そうとう参った顔をしていたのだろう。
姉のように杉本さんが、やさしくしてくれる。
「ほら見てごらん、燕岳がもうすぐよ。あそこはね花崗岩でできてるの。その向こうは鹿島槍(かしまやり)よ」
杉本さんが指さす方向に奇岩というべき景色がひろがっていた。
「鹿島槍は、ほらピークが二つあるでしょう?」
「ああ、そう見えますね」
「双耳峰(そうじほう)っていって、ふたつの耳って書くんだよ」
「ほんとだ、猫の耳みたいに見えます」
「あたしたちは、反対側に行くんだけどね。さ、そろそろ行こうか」
「はい」
おれは、よろよろと立ち上がり、リュックのベルトに手を通した。
根岸さんが、少し先の富士見ベンチで腰を下ろして待ってくれていた。
時間は十一時を回ったところだった。

ようやく道は尾根筋になって平たんになり、燕山荘(えんざんそう)が見えてきた。
燕山荘に荷物を置いて、軽装で燕岳を目指すという。
「足元滑るからきをつけてね」と根岸さん。
確かに、花崗岩が風化して細かい砂になっている。
傾斜のきついところもあり、崖になっているところもあった。
下を見ると、足がすくむ。
難儀して、ようやく燕岳のピークに到達した。
おれの最初の征服地だった。
記念撮影をして、お昼を食べに燕山荘に向かう。
「しんしましま」で買ってきたおにぎりと、コッヘルでお湯を沸かしてカップみそ汁を作って昼にした。
燕山荘でも、うどんやカレーライスが食べられるけど値段が高いので、一日目は持参弁当にするというのが根岸さんたちのアイデアだった。

今日は夕方までに大天井(おてんしょう)岳のそばの大天荘(だいてんそう)という山小屋に到達する予定になっている。
そこで幕営(テント)をするとのことだった。
「ここからがおもて銀座よ」
遠くに、槍、穂高が見えると、根岸さんが教えてくれる。
太陽は南中にさしかかり、高山といえども暑い。
標高は2700メートル以上あるそうだ。
尾根筋がはっきり続いていて、次の目標の大天井岳がその先にそびえている。
近く見えるがどうなんだろう。おれには見当もつかない。
まず、だらだら下っていく。
一時間ほど足元の悪い、ハイマツだらけの道を行く。
視界を遮るものがないので、アルプスに来たんだなと改めて感じた。

蛙岩(げえろ岩)という奇岩で休憩して写真を撮り、また歩く。
地図には「大下り頭」とあるところに差し掛かっている。
もう昼の一時を過ぎた。

喜作新道の分かれ目で雲行きが怪しくなってきた。
喜作新道は槍ヶ岳に続くルートで、そっちに向かう人もいたが、おれたちは大天井岳のほうに行かなければならないので、表示の通りに進む。
喜作という、この道を開いた人のレリーフが嵌った石の前で写真を撮ることにした。
大天荘(大天井ヒュッテの一つ)までが、また急な岩場で、鎖が敷設されている。

「注意して。下の方から雨雲が湧いてきてる」ガレ場を少し下ったところで根岸さんが叫んだ。

下は深い谷のようだが、もうそれは見えないくらいにもくもくと白い雲が昇ってきている。
そして稲光らしきものが雲を光らせている。
どどどんと、それこそ太鼓をたたくような音まで聞こえた。
「山ではね、雷は下から落ちてくるの」杉本さんが、低い声で言った。
「下から?」おれは聞き返した。
「だから、あたしたちのほうが雲より上だから、最短距離で地面に落ちるとすれば、上に向かうのよ」
「なるほど…」痛い頭でおれは考えた。
晴れていた周囲が、雲に覆われ、ジャケットが濡れてきた。
雨というより、霧の中にいるようだった。また雷鳴がとどろいた。ずいぶん近い。
「はやく岩陰に」「はい」
杉本さんとおれは、霧でかすかにしか見えない足元を急いでたどり、岩肌伝いに急いだ。
この伝っている鎖は、触らない方がいいんじゃないだろうか?
もしここに雷が落ちて来たらと思うと、気が気ではない。
根岸さんが、先に場所を確保してくれていた。
「ここでしばらくやり過ごそう」
「怖いですね」
「よくあることよ。大丈夫」
おれの着ているジャケットは雨具にもなるが、下がジーパンだったのでびしゃびしゃになっている。
急に寒くなって、震えが来た。
「寒いの?」と杉本さん。
「ええ」
「ジーパンは登山には向かないんだよ」
「そうなんですか?」
「あたしみたいにジャージのような化繊がいいのよ。すぐ乾くから」
「綿のズボンは着替えられないでしょう?下着は綿でないといけないけどね」
「いやぁ、まいったなぁ」
「あたしの予備のジャージを貸してあげるから、ヒュッテまでがまんしな」
「はい」
雷雲は、どこかに去り、雷の危険もなくなった。
山の天気は変わりやすいというのは本当だった。
もう、谷がよく見え、陽がまた射してきた。

三時前には大天荘に到着した。
もう十ほど天幕が設営されている。
根岸さんが手続きをして、おれと杉本さんでテントサイトの場所を取った。
三人用のドーム型テントを根岸さんと杉本さんはいつも山登りで携行していて、そのためにおれより重い荷物を背負っているのだった。
おれは、三人分のシュラフ(寝袋)と自分の着替え、食糧、飲料水、グランドシートなどをリュックに入れて、しめて8キロ弱にまとまっている。
親子連れのキャンパーがわいわいやっている。
「ここ、いいじゃない」
「かなりごろごろした石がありますよ」
「どこも同じよ。ここに決定」
杉本さんが、おれのリュックからグランドシートを取り出して広げた。
「そこに石をおいて、止めて」
「はい」
根岸さんのリュックからテント一式が引っ張り出される。
簡単にそれは拡げられ、大人三人が十分に寝られるサイズだった。
立つと、頭がつかえるので、かがんで入らないといけないが。
ペグでテントを大地に固定して、できあがりだった。
ビニールの匂いがする、その空間が外界と隔てられている安心を与えた。
「菅野君、じゃ、これに履き替えて」
杉本さんが、自分の予備ジャージズボンを貸してくれた。
おれと身長が変わらない杉本さんのなら、たぶんいけそうだ。
おれはさっそく、テントの奥に入って濡れたジーンズとパンツを脱いで、新しいパンツとジャージに履き替えようとした。
「おう、ごめんなさい」
杉本さんが、おれの下半身むき出しを見てあわてて、出て行った。
寒くって、恥ずかしいくらいに縮こまったモノを見られてしまった。
「しょうがない…おばさんだし。でも独身なんだよな」
おれは、自分に言い聞かせていた。

「どうしたの?」「ううん。ちょっと。あ、いま菅野君が着替えてるから」「そう…」
そんな二人のおばさんの声がテントの外から聞こえた。