その日は仕事が手に付かなかった。
同じところのネジばかり回している。

礼子のお腹の子はどうなっただろう?
それも心配だった。
「堕すのだろうか?産むのだろうか?」
それよりも、美香が礼子の妊娠を知ったら…それがおれの子だと知ったら…

菱川会の極道の娘である。
冷酷に、人に頼んで始末させる…美香の愛らしい瓜実顔(うりざねがお)が能面のように思えた。

家に帰り、テレビを点けると続報が流れていた。
容疑者が逮捕されたらしい。
あの高校生二人を殺害した容疑のあった韓国籍の男だった。
「金永慶(キム・ヨンギョン)」その名に聞き覚えがあった。
警察は余罪を追及しており、指定暴力団菱川会の関与を強く疑っているようだった。
被害者大野麻人は行者岬(ぎょうじゃみさき)の東方に予定されている「神山(こうやま)原発」の建設反対運動の急先鋒として推進派の義勇党から疎まれており、反対運動の輪が広がりつつあったので、ある政治団体が菱川会を利用して消したのだという評論家の文章が夕刊に載っていた。
その政治団体こそ、エネルギー庁長官の小国得山(おぐにとくざん)が所属する義勇党であることは、普通の大人なら誰でも知っているだろう。

行者岬一帯は「温羅(うら)の真砂」と古来から呼ばれて親しまれてきた景勝地であり、宮城県の松島にも譬えられるほどである。
地元の観光協会や、漁協を巻き込んだ反対運動は、日増しに大きくなり、海外の反核団体も押し寄せるほど世間の耳目を集めた。
そもそもの発端は大野麻人のタイムズ紙への寄稿だったという。
この寄稿によって国際世論を巻き込んだ反原発運動の旗手として大野の名前が知られるようになったのだと夕刊の解説にはあった。

その日、夜遅くおれは礼子に電話を掛けた。
「もしもし…菅野ですけど」
「ああ、けいちゃん。あたしどうしていいか」
「大変だったね。根岸さんも心配していたよ」
「うん、さっきまで電話で話してた」「そう…」
おれは、少し安心した。
根岸さんなら、礼子のことをよく知っているから、彼女に寄り添ってくれただろう。
「お腹の子のことだけど」
おれは、まずそこに触れた。
「心配しないで、けいちゃんには迷惑かけないから」
「でも…おれの子なんだろ?」
「そうとも言えない…あの日より数日前に、あたしたちセックスしてるの」
「え?」
おれは拍子抜けしてしまった。
「あの日」とは、礼子の部屋に大野が、けがを負って訪ねて来た日のことだ。
「あの人、もう覚悟を決めてたみたい…激しく求めて来たわ。刹那の交わりって言うのかしら。あの人は、死を覚悟して、あたしの中に証を残したかったのね。わかったから私、受けたわ」
「そうなんだ…」
「だから、あなたの子かもしれないし、あの人の子かもしれない。でもこうなった以上、あの人の子として、あたし、産むの」
そこには、亡くなった大野への気持ちが感じられた。
おれもその方がいいと言って、電話を切った。

DNA鑑定などという野暮なことは言うまい。
「大野さん、見守っててくれ…」
これからも、陰日向(かげひなた)となって礼子を支えて行こうと、おれは誓った。

大野麻人の葬儀も終わって、めっきり寒くなった師走の朝、出勤して始業前に美香から、
「金曜日の夜、行っていい?」
と、上目遣いに訊かれた。
「いいよ」
おれは、二つ返事で返した。
もうすぐクリスマスだし、予定を二人で立てるのにもいい機会だったからだ。
「じゃ、ごはん、一緒に食べよ」「うん」
そう言って、おれたちは机に向かった。

少しさかのぼるが、大野麻人の葬儀には美香も同人として参列した。
当然、杉本礼子も参列していた。

おれは複雑な気持ちだった。
美香は礼子のことを知ってか知らずか、終始無言で神妙な面持ちだった。
礼子は、大野のことで頭が一杯という風情で、痛ましくもあり、やはり声をかけづらかった。
独り者の大野の参列者は、友人や、仕事の関係者、原発反対運動の面々といったもので、会館を借りての質素な葬儀であった。
親族らしき人がいなかったので、喪主は大野の勤め先の出版社の社長が葬儀委員長を兼ねて執り行ったようだった。

おれは、大野の葬儀の様子を思い出しながら、パソコンのキーボードを叩いていた。

稲垣潤一の『クリスマスキャロルの頃には』が巷(ちまた)に流れていた。