私が言いようのない孤独を感じた最初の経験は、おそらく六歳のころだったと思う。
小学校に上がったばかりの夏休みに、母が入院したのだった。
ついに何の病気だったのかわからずじまいで、母はすでに鬼籍に入ってしまった。
いくらでも尋ねる機会があったのにもかかわらず、私は聞きそびれてしまった。
それなら父に訊けばいいのだが、不幸にして父が母より先に逝ってしまっていた…

私が大人になって、母の病がおそらく婦人病の類であろうことと察しがついた。
子宮癌とか卵巣癌で摘出手術をしたのではなかろうか?
母が亡くなったのは胃癌であったが、そのとき下腹部に古い手術痕もあったのだ。

それとも、流産とかだろうか?
私に、もしかしたら弟なり妹ができる可能性があったのかもしれなかった。
生まれて間もなく亡くなった浩二の兄「浩一」の例があった。
ところが、死んで生まれた子には名前も付けてもらえず、墓も用意されないのだ。

とはいえ、「もしそうだとしたら、死産とわかるまでは、母はあたしに、うれしそうにそのことを話してくれそうなものだ」と、思春期のころの私は思った。
夫婦が望んだ妊娠ならば、うれしいことだからだ。
家族が増えるのだし、父だって喜ぶだろうし、家の中はその話でもちきりになっても不思議ではないのに、母が入院した時は、そんな状況ではなかった…
あのとき、沈痛な面持ちで「なおこ、一人でがんばれるね。お祖母ちゃんが来てくれるから」と病院のベッドで私に告げたことを鮮明に思い出せる。
確か、大阪の日赤病院だった。

母の入院の間、父方の祖母が私の家にきて、私たちの世話をしてくれた。
母と家事のやり方が違うのが、私は気に入らず、祖母につらく当たったこともあった。
「お祖母ちゃん、いつまでいるのん?」なんてことまで言う始末。
母が私のために買ってくれたお茶碗や湯飲みが、祖母の手によってお客さん用のものに変わっていたり、洗濯したタオルや下着の入れ場所が違ったりで、私は「いやや、こんなん」とすねた。
祖母としては、勝手がわからず悪意があったわけではないのだが、私には「わざと」と思われたのだった。

私は孤独感にさいなまれた。
祖母は、父の母親だから、ふたりで私の母のいない間に好き勝手にするんじゃないか?
父は帰りが遅いし、まったく祖母のペースで家事が進んでいくのだった。

そんなときテレビから由紀さおりの『夜明けのスキャット』が流れて来た。
なぜかこの曲が私の孤独感をさらに強めたのだった。
そして、その中に自分が漂うように身を置いていた。
由紀さおりの声が母の声に聞こえた。
私は泣いていた…

そして『時には母のない子のように』も同じころよくテレビで流れていた。
カルメンマキというお化粧のきつい女の歌手が歌っていたが、その「母のない子」に自分を重ねてまた泣いていた。

私は、母がもうこの家に帰ってこないのではないかと思って、さめざめと泣いていたのである。

しかし夏休みが終わると母は無事に退院してきた。
私の小学一年生の夏休みは、このようにして終わった。
「倫子(みちこ)さん、なおこには、ほんまに泣かされましたわ。お祖母ちゃんのこと嫌いや、言うてね」
「すみません、お義母さん。なおこも、言うこと聞くって約束したのに。この子はもう」
私はバツが悪く、プイと表に出て行ってしまったことを思い出す。
とにかく、母が帰って来てうれしかったのだ。