東京電力の東日本大震災時の経営陣が強制起訴の末、東京地裁において無罪を言い渡されて結審した。
旧経営陣の三人すべてが無罪となったことに、訴えた側の原発事故被害者たちは不当判決だと肩を落とした。

福島第一原発が、あの震災の津波に直撃され、冷却装置の電源が水没し冷却水がストップしたために炉心溶融(メルトダウン)をきたして放射能漏れを起こしたため、周辺住民が強制的に避難させられ、故郷を追われたわけだ。
この災害が東電として「予見可能」だったかどうかが争われた。
福島第一原発は首都圏の電源として重要な位置を占めており、これなくして日本の中枢、大東京やそれを支える周辺都市の発展はなかったといっても言い過ぎではない。
しかしそのために、福島県の海沿いの過疎地の住民が犠牲になって土地を原発に提供していたことも事実である。
ゆえに、福島第一原発周辺の避難を余儀なくされた住民にとって、東電の原発建設に対する災害への備えが甘すぎたのではないかと憤りを隠せない。
原発の性質上、海浜に面して建設されるのは必定なのだが、放射能汚染水が漏洩することへの対策は、当時としては十二分に考慮されていたようだし、津波に対しても配慮をしていた。
ただその配慮が今回の大震災が惹き起こした津波には無力だったというのが東電側の主張であり、予測は到底無理だったと言うのである。
その主張には、いささか疑問があり、実は彼らの内部では今回の被害に相当する15メートル以上の津波が襲う可能性に触れた予測報告が提出されていた事実があり、旧経営陣もそれを知っていたものの、当時、同社が有する新潟の柏崎刈羽原発が中越沖地震で被害を受けて運休しており、その分を火力発電に頼っていたことから、数百億円も津波対策のために福島第一原発に費やすことが経営的に苦しかったという背景があった。
その先延ばし判断が、その四年後に起こる東日本大震災での福島第一原発事故被害を拡大させたというのが、原告の言い分であり、その判断をした旧経営陣個人の業務上過失致死傷罪を問うたのである。
つまり、旧経営陣は、福島第一原発を襲った15メートルを超える津波を予測できた立場にあったにもかかわらず、有効な予防措置を取らずに放置したことは業務上の過失だったということだ。

国や巨大企業に対する、住民からの訴えは、往々にして原告側の敗訴に終わるか、長い訴訟の末、和解に持ち込まれて終わりにされる。
住民たちが費やしたもの、失ったものは計り知れず、特に時間的な損失は取り返しがつかない。
最近でも、諫早湾干拓事業の是非を問う、漁民や農家の国への訴えもそうだった。
この諫早の訴えの行方は、国の政策の無責任さを露呈した。
干拓のために水門を閉じ、水門の内側を干拓地にして農家に分け与え、農業振興を推進した。
対して、水門の外の諫早湾では従来通り、海苔の養殖や漁業をおこなっていけるというのが構想だった。
ところが、海は干拓事業によって水質が悪化し、漁獲量は減り、海苔の養殖などまったく不可能に陥ったのである。
漁業民は話が違うと国を相手に訴え、水門を直ちに開けと要求したが、そんなことをしたら干拓地の農地に塩害が生じて作物がだめになると、農家側が差し止め請求を出した。
水門閉鎖時の政権が民主党政権だったが、民主党政権は倒れ、自民党が政権を奪還したら、干拓事業は失敗だったと言い出す始末である。
法廷での争いは、漁民への判断と農家への判断が食い違う結果に逢着してしまい、最高裁は指し戻して、もう一度裁判をやり直して、折り合いをつけろと命じた。

私は、こういった司法判断は間違ってはいないと考えている。
東電旧経営陣への無罪判決は、当然の結果だろう。
津波の高さが「予見可能」だったとして、まだ東日本大震災が起こっていない時点において、刈羽原発停止による代替火力発電の燃料代で経営を圧迫している財務状況で、数百億の費用を捻出して福島第一原発の津波対策防潮堤を建設することはできるだろうか?
経営者として、先送りした態度が刑事責任を問われるほど重罪なのか?
もしそうなら、電源事業などは危なくてやれない。
原子力発電がチェルノブイリ原発事故などを受けて、かなり危険なものだということは東電経営者は百も承知である。
だから「原発をやめます」と当時、言えただろうか?
あなたが経営陣の一人で、そういう異論を唱える度胸があるだろうか?
原発で飯を食っている人間ならなおさら、言えないだろう。

ひるがえって、原発周辺住民の立場に立てば、東電経営陣に一言でも謝ってほしいというのが正直な気持ちであろう。
いや、彼らは謝罪したはずだ。
不十分でも保障はしたし、その行動は取ったと思う。
今回の裁判で、反対に旧経営陣の三人が有罪となり、求刑通りの禁固刑に処され、収監されたとして住民は留飲を下げたことになるだろうか?
なにも変わらないだろう?
原発経営者だからと、一個人を有罪にして、留飲を下げたところで、不毛ではないか?
それよりも、今回の津波被害を天災と位置づけ、今後に役立てるほうが前向きだ。
訴えられた旧経営陣の三人はもはや職を退き、退職金はもらっているだろうが、それは「腹の立つ」ことかもしれないけれど、電気の恩恵を受けていた住民の立場も顧みてほしい。
事故が起こらなければ、土地を提供した地主は大きな恩恵を受けているはずである。
また千葉の台風被害で浮き彫りになったが、電気がなくては泣き言しか出ない現代生活である。
「東電憎し」では、あまりにも偏狭な考えとは言えまいか?
そういうのを妬みというのである。
妬みは、人を後ろ向きにさせる。
心の健康上、たいへんマイナスな考え方だ。

天災は天災なのである。
あのとき、もっと対策をしてくれていたら…そう思うのは、後からだから言えるのだ。
東京電力とて完ぺきではない。
原発も完ぺきではない。
でも使わないと、無責任な人々は文句ばかり言うだろう。
自分の近所では原発はいらないけれど、安定な電力供給はしてほしいのだ。
こんな身勝手な個人が多い中、司法の判断は妥当性を保っていると、私は考える。

訴えるのは自由だが、結局、かけがえのない時間は失われ、敗北感しか残らないだろう。
水俣訴訟で知ったはずだ。
運が悪かったと思って、前を向くようにしなければいけない。
誰かのせいにするのは、マスターベーションに過ぎない。