国や巨大企業への、個人からの訴えは「蟷螂の斧」だから、無駄なのだろうか?
そうではない。
原告敗訴もしくは強制的な和解に持ち込まれ、ほぼ泣き寝入りになってしまうのが常だけれど、司法判断が出た後をよく見てほしい。
被告側は、次は「訴えられないように」と防御の気持ちからか、反省の気持ちからか、いろいろあるだろうが、とりあえず改善の方向に法整備や対策が実施されるようになるのだ。

福知山線脱線事故の場合、JR西日本のみならず、JR各社においても自動列車制御装置(ATC)の設置が進んだり、無理なダイヤを是正して運転士へのプレッシャーを軽減したりと改善に向かった。
水俣訴訟が、日本の公害対策を推進し、世界でも有数の工場排水浄化設備、大気汚染防止設備を備えた企業を増やした。
今からちょうど三十年前に起きた日本坂トンネル火災事故においては、この未曽有のトンネル火災への対策として道交法やトンネル建設への法整備が進んだ。
2012年に発生した中央道の笹子トンネル天井落下事故も、定期点検の形骸化の問題や、高度成長期に乱立した道路や橋梁の老朽化が進んでいることへの警鐘となるなど、国交省を動かしたことは事実だ。
これは阪神淡路大震災での高速道路倒壊事例でも問題になっていたことだ。

一方で、大手広告代理店の「電通」やNHKの職員の過労による自殺が働き方改革法制に寄与した。
これらの事件や事故による被害者たちが訴えたからこそ、社会の改革が進んだのである。
決して、訴えることが無駄ではなかった事例だ。

袴田事件で再審請求が認められ冤罪が解かれたのも、本人にとってはもはや名誉回復だけでしかなかったが、取り調べの可視化、自白偏重主義の見直しなど警察や検察の態度を改める方向に動いたではないか。

これも辛抱強く国家への訴えを続けたからにほかならない。

このように、訴えそのものは、訴えられた者に対してボディブローのように効くものなのだ。
とはいえ、被告側もプライドや立場があるから、最大限の権利を使って防御し、勝とうとする。
それも巨大な力を持った政府や大企業であるから、往々にして彼らが勝利する。
でも手放しには喜べない彼らである。
世論の批判にさらされ「勝てば官軍」などと嘯いていては、次はない。
日本は、その点、自浄作用が働いている。
だから、政権は法整備で改善し、社会は訴えられないように防御に勤しむ。
資本主義でリベラルな社会の自浄作用は、被害者の尊い犠牲の上に成り立つようになっている。

津波が襲って、初めて原発の是非が問われ、姿勢としては廃炉の方向に政府は動いた。
日本の電源政策は、根本的な改善を求められており、それが電柱の廃止でいいのかどうかが今後、問われるだろう。
もはや「喉元過ぎれば熱さを忘れる」では済まないくらい、毎年、自然災害が日本を襲っている。
喫緊の課題が政府には山積しているのだった。

補償金という「カネで解決」ではなんの解決にもならないのである。
その「カネで解決」する「カネ」もないのに。

被災者の不公平が募り、田舎は、ますます放っておかれ、限界集落は予想通りに自然消滅するのを待つだけだ。
先日、地価の上昇率が発表されたが、日本の田舎と都市の格差が固定化された感があった。
もはや、売るものを持たない地方は捨て置かれ、富む都市はますます富むということになりそうだ。
その「田舎」に自然災害が襲って、息の根を止められる瞬間を私たちは幾度も見てきた。
「田舎暮らしはいい」などと、のどかなことを言っている都会人は、いまだに後を絶たないが、いったい、どこを見てものを言っているのだろうか?
テレビ朝日の『人生の楽園』に代表される、脱都会暮らしを讃える番組は、私は好かない。
このテレビ局の『ポツンと一軒家』も限界集落を揶揄しているようにしか見えないし、もし、良からぬ人間がこれを見て、一軒家を襲ったらどうするのだろうか?
「世田谷一家殺人事件」のように、迷宮入りしてしまうこと必定だ。

私は最近の朝日新聞社やテレビ朝日系列の報道や番組に触れるにつけ、これでは文春や保守系新聞社に攻撃されても仕方がないなと思うようになった。
橘玲氏の『朝日ぎらい』(中公新書)を読むと、なおさらそう思うようになった。
朝日新聞社は従軍慰安婦の取材が虚構だったことから、おかしくなったのだろうか?
それ以前から、やらせ問題や沖縄のサンゴ礁への落書き事件などの変な記者たちの行為が目立った。
それはNHKにも言えることなのだが、どうやら、日本の報道は精神的に参っているのかもしれない。

従軍慰安婦は実際にいたのであって、女性が人権を踏みにじられたのである。
橋下徹の「戦争だからそんなことは普通だ」という論調も、無根ではない。
すべて戦争が悪いのだといって、ものを考えなくするのは良くないけれども、過去の問題として、反省を込めて従軍慰安婦のことを真摯に取材して、記録を残すことは大事なことである。
山崎雅弘の『歴史戦と思想戦ー歴史問題の読み解き方』(集英社新書)では「南京事件はなかった」という昨今の日本の保守系の論調に警鐘を鳴らしている。
昭和天皇の弟で故三笠宮崇仁殿下は戦時中、中国戦線に派遣されていたそうだ。
そこで崇仁殿下は生前「辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません」とインタビューに答えたことがあったと、前掲書には引かれている。

私も以前から、南京事件で日本兵が中国人を虐殺したことについて、中国側の被害者数が不当に水増しされていると日本側が抗議した点について、「人数など関係ない。一人でも虐殺があれば虐殺ではないのか?」とブログに書いたことがあったが、殿下も同じ考えだったようだ。

南京事件については、私の大叔父が南京に出兵させられて、その現場を見ており、虐殺があったことを話してくれていたから、私にはとうてい「虐殺はなかった」などという説を信じることはできなかった。

話が飛んだが、弱者の訴えが一見無力に見えても、届かないことはないのである。
司法は、ときに理解に苦しむ判断をすることもあるが、おおむね、理性的に法的判断を下していると私は見ている。
そしてたとえ原告に敗訴が決まっても、勝った国や大企業は善処に動くことが多い。
決して「蟷螂の斧」では終わらないと信じて、訴えてほしい。