塾頭の和多田先生もそうだが、私の周りには学校の教員をやっていた人が数人いる。
過去形なのは、彼らがみな退職しているからだ。
定年退職した先生はたった一人で、高校の国語の先生だった女性である。
つまり、ほかはみんな中途で先生を辞めたわけだ。
理由は激務に耐えかねてである。
親の介護でやむなく辞職した人もいる。

やはり報道されているように、教育現場は大変なようだ。
「同じ公務員なら自衛官のほうがましだ」と言っていた、ご主人が陸上自衛官の先生がいた。
ご主人は、ご主人で単身で、あちこちに赴任先が変わるから、それはそれで大変なのだろうけれど。

和多田先生は中学の数学と理科の教員免許を持っているが、体を壊して地元の公立中学校を辞職された。
激務が祟(たた)ったというわけではなく、持病が悪化したのだと言われた。
1型糖尿病なのだそうだ。

私の知り合いに学校の先生が多いのは、児童文学の会に参加しているからだろうか?
和多田先生とは町内会で知り合った仲だが、ほかは、すべて児童文学会の会員である。

今日の新聞に昨年度の「国語に関する世論調査」の結果が出ていた。
ご覧になった方も多いだろう。
「憮然とする」の意味が、半数以上の率で誤っていたという。
つまり「立腹している様」を言うのだと思っている人が半数以上いたそうだ。
「ぶぜん」と聞けば、何やら「ぶすっとして、お怒りの様子」のように思えるのは、いたしかたない。
しかし、漢字を見てほしい。
「憮」は「りっしんべん」に「無い」である。
「心、ここにあらず」という様子ですよ。
だとするとその意味は「失望してぼんやりしている様子」となります。
こういった間違いが流布する要因として、SNSの流行りと、テレビ番組の軽率化が挙げられています。
また読書週間の真っ最中ですが、活字離れが言われて久しいし、紙の新聞を読まない人がとても増えているそうだ。
テレビ番組の軽率化なんて、私たちの子供のころから言われてましたがね。
どうやら、コメンテーターにお笑い芸人とか、おバカ芸人を使って笑いを取るためか、彼らがもともと言葉知らずで、誤用を多用するらしい。
すると、それが巷間に流布するという構図となる。
「いいそこまちがい」なる変な言葉が広まったようにね。
「いいそこなった」と「まちがった」が合成されたんだな、きっと。
今回の報告にあった「天地神明に誓って」が、最近の人は「天地天命に誓う」らしい。
お米の「神明」を知らないのか?
「天命」は待つもんだ。誓うもんではない。

どこかの養護施設で、知的障害の子に唾を吐きかけた職員がいたとして、謝罪し、職を解かれたというニュースがあった。
事実だとしたら、とんでもない職員がいたもんだ。
その職員の謝罪会見で、当人は「子供の方から唾を吐きかけて来たので、人が嫌がることをしてはならないことを諭すために、自分も唾を吐きかけた」と持論を展開したのだった。
昨今、教育現場に暴力がおこなわれることを、排除する動きがあるのにである。
人に向かって唾を吐くことは、立派な「暴力行為」であり刑法上は「暴行罪」である。
心神耗弱な児童がそれをおこなったことについては、教え諭す必要があるが、同じ方法をとるとは、大人のすることではなかろう。
「言ってわからんやつには、痛い目にあわせないかん」というのが昔の教育法だった。
体育会系部活動で横行していた体罰・制裁教育である。
今は違うのだ。
人間教育は、言葉で教え諭すのである。
「諭す」は「ごんべん」であることから、「言って聞かせる」のだ。

この唾吐き職員は、自分の行為を正当化するために「唾を吐いたのは教育の一環」だと言いたいのだろうが、そういう言い訳こそよくない。
「腹が立ったから、仕返してやったのさ」と正直に言えばいい。
同じ行為でも、「おまえ、あほやなぁ、その仕事は向いてないで」と周りから言いやすいではないか。
どっちにしろ許されることではないがね。

障碍者と向き合うのは、簡単ではない。
私と夫の関係でも、よくブチ切れることがあるのだ。
「障碍」は不幸か?と問われれば、本人はいざ知らず、家族は「そうだ」と答えるだろう。
ただ、それは不幸と受け止めて、せめて「不自由」だと言い換えて前向きに生きていくほかないだろう?
手がかかり、時間が取られるという「実害」が厳然としてある。
手当てがあるとはいえ、副次的にカネもかかる。
それを「不幸」と言わずしてなんというのか?

だから「出生前診断」を、私は批判することができない。
親として「五体満足」の子が生まれてくることを願うのが自然だからだ。
「命の選択」に当たるとかいう人がいるが、だいたいそういう人は、すでに障碍者か障碍児の親だ。
自分たちが苦労しているのに「逃げるのか?」と言いたいのだろう。
まだ生まれていないのなら「命」に目をつぶってもいいじゃないか?
民法上は胎児にも相続権があると解釈されるが、それはお金持ちの家の話。
不幸を背負って生まれてくる子をあきらめて、次の子に賭けるのも生物として当然だろう。
「中絶された胎児は母を恨まない」そういってやれる人が増えるとよいのにと思う。
しかし、いったん母体から分離された障碍児を、親はちゃんと育てなければならないと私は思う。
これは、もはや胎児ではない一個の人間だからだ。
私は胎児には完全な人権を認めないが、出生した赤ちゃんには全き人格、人権があると民法通りに解釈する。
だから、育児を放棄したりすることは許されないのである。
また行政も社会も障碍者に寄り添わなければならない。
だからこそ「障碍児を産まない選択」は許されていいのだと思うのだ。
もちろん「産む選択」も認めますよ。

教員の話から飛躍したが、いろいろ思うところがあって書きました。