秋田県の豊川油田についてNHKの「ブラタモリ」で取り上げていました。
秋田県には日本で有数の油田を持つ県です。
日本石油などが採掘権を持っていたようですが、現在も少しは湧出しているらしくジオパークに認定してもらう動きがあるらしい。
ジオパーク認定に力を注いでいるのが番組にも出ていた佐々木榮一氏だった。

石油の元は古代に海洋に生息していた生物の排せつ物や死骸が海底に堆積したものの上にさらに土砂などがかぶさってその重圧で炭化水素として液化したものであるとされています。
この地層が海底にあったのにもかかわらず地表近くまで地殻の変動によって押し上げられ、油田となり、そこに採掘用の井戸を掘ることを油井(ゆせい)と言います。
豊川地区はほぼ地表に原油が湧いている状態で「燃える水」あるいは「臭い水」として昔から知られて来ました。
この原油を利用する知恵はなかなか日本人にはなかったのですが、古代、それこそ縄文時代にはタール分が地層から現れているところを掘って、コールタールを接着剤に利用していた出土品が出ています。
その出土の分布は東北地方のほぼ全域にわたっており、縄文人の必須アイテムとして利用されていたとうかがえます。
江戸時代にも土瀝青(どれきせい)と呼ばれてコールタールの利用が細々と続いていたらしい。

断層破砕帯に原油があふれだし、長い年月の末、揮発分がなくなってコールタール成分だけが層をなして崖などに露頭しているのを古代人は利用したのだろうと考えられます。
なぜなら、現在でもコールタールを利用するには原油を加熱して精留塔で分留し、揮発油を取り去った釜残(かまざん:蒸留残)を利用するからです。
古代人がそんな技術を持っていたとも考えられないので、直接コールタールが露頭している場所から採取したものと考えられています。

しかし明治になって、コールタールの需要が高まり、豊川油田の名が日本中に轟くことになるのでした。
東京などの都市化にともない、馬車や軍馬の通る道路の整備が急務となり西洋に倣ってアスファルトで舗装することになったからです。
豊川油田には油井の木造の櫓が数百も林立し、宮大工がそれを作り上げたと佐々木氏が説明していました。
さながら「テキサス」だと、アメリカ人やアメリカ帰りの日本人が豊川の景色を見て驚いたと言います。
この油井は、コールタールを得るためのもので、もったいないことに揮発油分は、ほとんど利用されずに燃やされて捨てられていたのです。
時代がまだ石炭の時代で、当時の軍艦も石炭ボイラーでした。
そうして、昭和十五年ごろには枯渇してしまいます。

番組では全く戦時中のことには触れていませんでしたが、私は、日本が太平洋戦争に突入する理由の一つに石油の輸入をアメリカに止められたことが挙げられると本などで知りました。
だったら、日本の油田も見直されてしかるべきなのに、どうやらすでに利用価値がないほどに枯渇していたのですね。
だから軍部は中国大陸や南方戦線に油田や炭田の活路を見出すべく進出を企てたのだということです。

手元にある『陸軍燃料廠』(石井正紀、光人社NF文庫)によれば、昭和十三年に陸軍が石油の資源不足について本腰を入れて研究を始めたらしいことが書いてあります。
先に海軍が燃料廠を神奈川の大船に設立して研究しており、陸軍は十五年も遅れてこの分野に取り組むことになったとあります。
この本には、もはや秋田の豊川油田のことはどこにも出てきません。
外地の油田の採掘と、油送、分留の方法などに終始、研究が及んでいる様子がうかがえます。
ことに新兵器となる航空機のためのガソリンの研究が急務となったため、ハイオクタンガソリンをどうして確保するかが主題となっていました。
そのためにドイツの化学工業技術が要求されもしました。
アスファルト利用などまったく顧みられないほど、揮発油の確保に軍は躍起になったのです。
※アメリカの「黒船」が開国を迫るために日本にやってきましたが、あの船は木造船にコールタールを塗ったものだったのです。だから黒かった。その意味は、撥水と防食のためだそうです。開国間近なころ、商魂たくましい人が日本の油田のタールを幕府の海軍奉行などに売り込んだとかいう話も聞きます。

戦争末期に日本軍は、石油の枯渇から松根油(しょうこんゆ)の乾留製法によって石油風の燃料を得ようとして、日本中の海岸の松林を中学生や婦人会を使って伐採したと記録にあります。
そんなことをしても焼け石に水でした。
もはや戦うには、石つぶてか竹やりしかない状況で何を言っているのでしょうか?
狂っていたのです。なにもかも。