今日、中曽根康弘元総理が101歳の天寿を全うされた。
私の、いわゆる就活時期と中曽根内閣が重なっていたので、少なからず感慨が深い。
昭和60年の春に私は大学を卒業するのだが、その前に2社の企業に面接を受けに行った。
一つは中曽根氏の地元の群馬県は高崎市の群栄化学工業という東証一部上場企業で、もう一つは京都の化学会社でいろいろお世話になったので名前は伏せさせていただく。

群栄化学を受けたのは、担当教授の推薦があったからだが、私自身は群馬県という、大阪からは途方もなく遠いところに親元を離れて就職するということからあまり乗り気ではなかった。
「中曽根首相のおひざ元で、この会社も首相の息がかかっているから、君に安心して薦められる」
なんてことを教授がおっしゃるし、落ちたら落ちたで先生の顔も立つだろうしとにかく受けることにした。
筆記試験らしきものがあったようだが、当時はバブル期であり、学生の売り手市場だったから、形だけだったと思う。
同志社大学の工学部の男性の応募者がいて、同じ関西出身だとかで試験場の会議室で話した思い出がある。
ほかの志願者は東京方面の人ばかりだったから、関西人は浮いていたのだ。
交通費も群栄化学から支給され、お土産までいただいて帰ったことを思い出した。
その交通費で、わたしは、帰りは中央本線の「ちくま」の夜行で帰ることにした。
※同志社大の男性は新幹線で帰った。当時の私にとって、あんまりタイプではなかった。

まだ「国鉄」時代だった。
夕日に映える妙義山の奇岩を見つつ、碓氷峠を超え、長野県に入った時にはもう夜だった。
座席でそのまま寝ながら夜行列車の一人旅を楽しんだのだった。
結果は不採用だった。

それでよかった。
わたしは、大学院に進むことにしたのだから。
それも京都の化学会社に勤めながら。

中曽根内閣は長かった。
そういう意味で、私の中では特に印象深い総理大臣だった。
「ロン」「ヤス」会談や国鉄解体、三公社五現業のうちの三公社の解体などの大ナタを振るった総理大臣として、大胆かつ繊細な外交手腕が、私たち学生にも脅威として映った。
旧国鉄の労組との軋轢はすごかったもんなぁ。

日本が強いなと感じた総理だった。
安倍総理も長い在任期間を誇っているが、中曽根氏とは比較にならない政治内容だ。
外交もまずいし、特に中韓との関係がまるでヴィジョンが見えてこない。
改憲にしても、中曽根氏の改憲論は傾聴に値したが、安倍氏のそれはつまらない。
護憲派だった宮澤喜一元首相との対談は、私も本を買ったぐらいだった。

安倍首相は敵失とポスト不在で長期政権を維持しているに過ぎない。

中曽根内閣の時代は、バブル経済とも重なり、そのことが国民の支持を得たのだろう。
新聞によれば5番目に長い政権だったそうだ。

引退宣言をされ、それでも政治活動は続けると気炎を吐いた中曽根氏は、自民党のご意見番として君臨してきたのだった。
しかし、この安倍長期政権には苦々しい思いが募っていただろう。
中曽根氏は、忸怩たる思いのまま、永眠されたのだと思う。

「お友達」内閣で、「お手盛り」「隠蔽」「忖度」で地位をほしいままにし、外向けには「アメリカの犬」となり果てている安倍政権である。
言いたいことはいっぱいあっただろう。
先輩の意見をもっと聞く耳を持てと、中曽根氏は遠回しに言っていなかったか?

安らかに。
合掌。