共産主義という思想は、いまや潰(つい)えたと考えていいのかもしれない。
私も若い頃、この思想に傾斜したことがあったが、幸い、日本がそういう社会ではなかったということで、決別することができた。
今でも、私は、共産主義は誤った思想だったと思っている。

ならばその修正形の社会主義はどうか?
これは賛否あるだろうが、私は社会資本を民主的に運営していくうえでの社会主義はまっとうな思想だと思う。
営利になじまない社会資本というものが実際に存在する以上、それを市民が応分の負担をして維持運営していくことは必要であり、そのための公共事業はケインズの思想を待たずとも当然に国家事業としておこなわれるべきだと考えている。
エンゲルスがいくら「科学的」だといっても共産主義の修正は、自由主義の前には画餅に過ぎない。
共産主義は「資本家」と「労働者階級」を完全に分離した。
すると、労働者階級の固定化をもたらし、競争することができず、財産はいくら勤勉に働いても同じ分しかもらえない。
労働者はいつまでたっても財産形成ができず、資本家にはなれない。
階級否定のはずが階級固定をきたしたのである。

人間は向上を求める本能を持っている。
競争社会は、実は、人間が望んでいるのだ。
競争しなくていい社会が幸せだとは思えない。
競争を否定しては発展はないのだから。

かつて、日本共産党にあっては、戦後日本のオピニオンリーダーたりえたが、反軍国主義で世論の賛同を得たものの、その驕りからか、中国共産党のような「つるし上げ」による恐怖政治をおこなった。
日共は日本赤軍や核マル派と無関係だと言うが、かれらは派生したのであって、同じ穴の狢(むじな)である。
例を引こう、矢田事件と八鹿高校事件である。
端的に述べれば、部落解放同盟と日本共産党(日教組)との闘いである。
この際に、部落解放同盟に近しい教員に対して非人道的なリンチを加えたのが日教組とその背後の日本共産党だった。
安保闘争華やかなりしころの日本共産党やその青年部の民青同盟そして日教組はそういう団体だったのだ。

私は、革命によって自由を勝ち取るという「幻想」は持たない方がいいと感じている。
戦争によって得られた自由は、反対に奪われた立場もあるということだ。
その恨みは永続する。
そして新たな闘争に発展するのだ。
社会主義は、従前の共産党の「革命待望論」を否定して生まれた。

すでに恒久の平和を手にした日本は、いまこそ民主主義を推し進め、社会資本を国民共同の資産として運用し、後世に伝えていく好位置にある。
有形・無形の社会資本は、日本国民が負担し、享受し、新たに形成していくものだからだ。
私の社会資本主義思想をかいつまんで言えば、こういうことになるだろうか?

ノーベル経済学賞受賞のフリードマンは自署「選択の自由」で、人々の経済活動に国家の介入を最小限にした自由社会こそ、人類の発展に不可欠であると説いた。
「小さな政府」とも言い換えられる彼の主張だが、日本の政治家はそれを歪曲して、弱者切り捨て社会を確固たるものにしてしまった。
「小さな政府」が「格差の固定」を生み出してしまったのである。
つまりフリードマンが懸念していた「選択の自由」が「貧困層」を増やしてしまったのだった。
彼の「自由主義」はアダム・スミスに由来する。
アダム・スミスは早くから、国家の介入が最小限の、自由な社会を目指せばおのずと社会は発展し、良い方向に栄えると唱えた。’
マルクスと違い、物の価値と労働の対価を切り離したアダム・スミスは、それによってマネタリズムの元祖となった。
通貨供給こそ市場を決定づけるのだということである。
ケインズはその通貨供給を公共事業をつかってキャッシュフローを考えたのだった。
世界恐慌を経験したケインズは、それしかないと考えたのもうなずける。
別に、スミスが正しい、ケインズが誤っている、マルクスが無茶だと言っているのではない(言っているか…)。

自由主義が根底にあるのがアダム・スミスであり、フリードマンであることは間違いない。
それはさかのぼれば、ジェレミ・ベンサムの「幸福追求権」にあるだろう。
人間は幸福を追求する根源的な要求を持っていて、それは当然の権利だというのだ。
そのために働き、家庭を築き、子供を育て、死んでいくのだ。
いや別に働かなくてもいい。
それは必要条件ではない。
生まれながらにお金持ちもいるからで、彼らも幸福追求権を有している。
遊びほうけて、散財し、それもまた経済を回す力になる。
すると守銭奴こそは、経済悪化の元凶だという「タンス預金反対派」の日本政府の考えもわかろうというものだ。
マネタリストなら「タンス預金」を批判するだろう。
しかし、老後不安を抱えた老人には聞こえない。
新紙幣を発行して、タンス預金を市中に引き出させようと考える向きもある。
悪い奴は「特殊詐欺」でタンス預金を老人から奪おうとする。

無駄遣いは美徳だ。
無駄遣いをせずに、財布のひもが固いと経済はシュリンクする。
「断捨離」をしても、新しいものを買ってくれなくては経済にはよろしくない。
環境破壊がそれで加速されようともだ。
と、私は勝手な経済論を書いたが、やはり、食品ロスはいけないし、無駄遣いして首が締まるのは自分であるから、幸福追求にはならないだろう。
目的のある貯蓄をし、必要なものはよく考えて買うようにしていきたい。
借金してまで物を買っても喜ぶのは他人である。
また買ってしまったものは、しかたないから、ちゃんと消費し、維持し、使い切ろう。
私が散財したことで、だれかの給金になっているのなら、それはそれでいいではないか?

お金が人の間を滞りなく回る事が経済の要諦だと思う。
あるところに不必要に溜まって、動かないお金はよろしくない。
「宵越しのカネは持たない」という江戸っ子の気質(かたぎ)は、なかなかいいことを言っている。
使っても、また働いて金をもらえる社会にしたいものだ。
それが安心な社会だと思う。