陶淵明(東晋時代の詩人:365~427年)は漢文の授業でも出てくるような偉人であるが、この人の次の漢詩を引いてみよう。

飲酒 (ニ十首の其の五)

結廬在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
采菊東籬下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相與還
此中有真意
欲辯已忘言


廬(いおり)を結んで、人境に在り
而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う、何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと
心、遠ければ、地、自ずから偏なり
菊を東籬(とうり)の下より采(と)り
悠然として南山を見る
山気、日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥、相與(あいとも)に還る
此の中(うち)に真意有り
辯(べん)ぜんと欲すれば已(すで)に言を忘る
(石川忠久 訳)

『文選(もんぜん)』にも採られている、陶淵明の名作だと言われている。

私は、これは陶淵明が「隠者」ではなく、彼の友人たる「隠者」に問うている形式の詩だと思うのだ。
その友人は、隠者と言いながら市井に住処を構えている。
「君に問う」と言っているのだから、問うているのは陶淵明だと推測するのだ。
※それとも陶淵明が市井に住む隠者として、友人に「なぜだと思う?」と問いかけているのかもしれない。「なんでおれが、こんなやかましいところで、隠者然としていられると思うか?」と。

いずれにせよ、この詩の要諦は、隠者という者が、山奥の人里離れたところに廬を結んでい暮らしているのではなく、車馬の喧しい街のど真ん中にもいるのだという驚きである。
「心、遠ければ、地、自ずから偏なり」とは「心が離れていれば、地も自然と辺鄙なるものだ」と隠者は言うのだ。
隠者の心があれば、どこに居場所(地)があっても幽谷の境地にたどり着くのである。

菊の花を東の籬(まがき)の下で手折り、自分は悠然として南山を眺める…
すると、夕暮れに、山の空気はよろしく、飛ぶ鳥が、相連れ立って、飛んでいく。
こういった中に(隠者の)真意があるのだ。
まあ、それを説明しようとしても、どう言ってよいやら私にもわからないのだがね。

と、隠者然たる友人はしめくくり、満足げに笑みを浮かべて私(陶淵明)を見るのだった。もしくは、陶淵明がそう友に言ったのかもしれない。

石川先生によればこの詩の元に、王康琚(おうこうきょ、六朝の詩人)の「小隠は陵藪(りょうそう)に隠れ、大隠は朝市に隠る」という詩の一文があるという。
つまり、大したことのない隠者は、藪深い人里離れたところに隠れるが、本当の隠者は市井にいるものだというわけだ。
周囲の喧騒などものともせずに、我が道を行き、詩作に励んでいる者こそ本物の隠者であると。

中国では古来より隠者を崇拝してきた。
行者よりも、隠者なのである。
石川先生は古代中国から中世にかけて、隠者には「地位」が保証されていたという。
隠者には社会的なつながりがあり、だからこそ市井に在るべきなのだった。
隠者は学識が高く、詩歌に優れ、よく書をものし、はたまた絵画さえも描いた。
とうぜん、貴人の宴会にも呼ばれ、詩を披露し、場を盛り上げるのである。
普段は、子弟の先生として役割を果たしてもいた。
もちろん代々、隠者を受け継ぐ家系もあったようだ。
すると、孔子や孟子などの儒者も隠者であったわけだ。
隠者の家はサロンであり、思想のるつぼであった。

日本では三十代で遁世し『徒然草』を書いた吉田兼好や、大原や日野で閑居生活を送り『方丈記』を書いた鴨長明が「隠者」の代表だが、どうやら彼らは「小隠」だと中国では言われるだろう。

本当の隠者は「世捨て人」ではないのである。

「小隠=引きこもり」か?
私は、そうだ。
まったくその通りだと思う。
こうやって書物を蚕食しながら、ああでもない、こうでもないと人を避けているのだから。

(参考文献:『石川忠久、中西進の漢詩歓談』大修館書店)