劇団「天井桟敷」を主宰した寺山修司が著した『書を捨てよ、町へ出よう』というエッセイがある。
私はこのアナーキーな書物を読んで、かなり影響を受け現在に至っている。
開高や野坂(昭如)とこの人、寺山に若輩の私はガツンとやられたのだった。

女は野球よりもサッカーが好きだというような、ちょっと読んだだけではさっぱり意味不明の文章も、読んでいくと滋味がある。
要するに「タマの大きいものを女は好む」というのだ。
生物学的に、おそらくですよ、正しいのだと私も思う。
睾丸の大小と、野球とサッカーに譬えるところが寺山らしい。
私も寺山修司の享年よりも十年近く生きた。
すると、彼の言いたいことが、いまさらながらうなずかされる。

イヴ・ロベール監督作品の『わんぱく戦争』の一場面を彼はよく引き合いに出す。
子供たちが戦争ごっこを始めるにあたり、誰が大将にふさわしいかと議論する場面があり、その中の体格の大きいヤツが「ちんぽの一番でかいやつが大将さ」と言い切るところだ。

こういう、人類(主に男性だが)が古来より普遍的に、上下関係を示したであろう「規範」が「性器の大小」だったということと、女が「タマの大小」にこだわることとを寺山が並列させるのだった。

聞くところによると、寺山修司はボクシングなどをやっていて、なかなか締まった肉体を有していたらしく、それが自慢でもあったようだ。
「ぼくが一緒に寝よう、というと母さんは、いやだ、という。どうしていやなのか―ボクシングで鍛えたぼくの肉体に性的魅力がないのか、というと、何よりもそれは「畜生道」だというのである。云々」

このように、寺山修司が論ずるところに、若い私は衝撃を受けたのである。
母親にとって性交は快楽よりも、愛よりも、生殖のためにあるらしいことをそのあとに綴っている。
つまり「文化の違い」だと言いたいのだろう。
寺山自身は、性欲のおもむくままに、身近な女である母親に愛撫を求めてもなんらおかしいことではなく、古い考え方、道徳ではいけないかもしれないが、それは文化の違いなのだと。
相手が父親という同性でも対象になるというのだ。
面白い考え方だし、かえって「人間的」だとも思えるようになった。
文化なればこそ、動物のような野蛮な話ではなく、一つの嗜好、趣きとでも言えるのではなかろうか?

トルストイの「唯一の正常な性行為は、はっきりと子供を産むことにむけられた性である」という言葉を引いて寺山は、「だが、ぼくは快楽が好きだし、母さんもまた、快楽がすきなのではないだろうか?そして快楽というのもまた、ぼくたちの作り出した文化にほかならないのだ」という。

寺山は、ひとは誰とでも寝る「自由」があると説き、毎日いろんな女と寝たいと思っている…と吐露するのである。
いい人なんだなぁ。
こういうことを、どうどうと書ける人が、今は少ない。
今の方が、自由な表現を許されているはずなのに、かえって性に消極的になった。
もっとも、ネット社会の中では、むしろ、タガが外れたように映像や文章が性的倒錯を横溢させている。
私の言いたいのはそうではないのだ。
寺山修司のように、ちゃんと自分の欲望と肉体の反応を包み隠さず、活字にしているかどうかである。

寺山は「戦争」についても、確固とした考えを持っている。
戦前に生を受け、彼も戦争を経験している。
ゆえに、生半可な「反戦」を言わない。
「反核」や「ベトナム戦争反対」を、文筆家なら声高に叫びそうなものだが、「誰もが戦争好きの社会」と揶揄する。
寺山が戦争を賛美しているのではない。
社会が「反核」と叫べばそれが正しいのだという風潮に石を投げるのだ。
「原爆反対に名を借りて、人間の醜態を見たがる心理が、大衆の中に根深くあるかぎり、ぼくは歴史なんて信じないし、原爆反対のキャンペーンにも組みすることなどできない」
これは、とても考えさせられることばだ。
最初、私は「何ということを言うのだ?この人は」と反発さえ覚えたものだったが、時間が経つにつれ、またジョン・ダワーの著作などを読んだ後では、なるほど「原爆反対」といくら叫んでも、その心が遠くにある私には資格がないのだなと、なかば諦めてしまった。
「抑止力」として「核」は現に存在していて、その機能が曲がりなりにも発揮されている。
それは尊い「ヒロシマ」と「ナガサキ」の犠牲があったからである。
ダワーはそこにアメリカ人の、東洋人への差別感情があったと明言しているが、そんなことはこの際どうでもいいのである。
原爆を落とし、阿鼻叫喚地獄をこの世に実現させた恐怖を、直接または間接に人類が知っているから、核保有国は「核を使わない」まま「効果」を得ているのだとしたら、核の抑止力というのは、かなり現実味を帯びているのではないだろうか?
もしそれで平和を維持できるのなら、私は構わない。
闘うことが人間の業(ごう)なのだったら、愛ですべてを解決することは不可能だ。

寺山修司は、ほかにギャンブルについての言及など、興味深い、私とは違う考えを持っているようだが、そこはそれ、彼の魅力でもある。

この小文の表題「書を捨てよ、町へ出よう」という警句は、私にこそ必要なのかもしれない。