新型コロナウィルスは人類に、「考え方を変えよ」と突き付けているように思う。
それは自由市場の資本主義に対する、あるいは一国二制度の共産主義に対するものである。
つまり思想の左右はまったく関係なく、言わば平等に問題提起をしているのだと思う。
今日の毎日新聞「シリーズ疫病と人間」に寄せられた水野和夫法政大学教授(66)の意見は、私にそう感じさせた。
経済学者の視点から、大胆にも企業の内部留保を、この非常時に吐き出させて人々の生活再建に充当せよと言うのだ。
そして国家元首が自身の首を賭して、大企業に対して、経団連に対して「大ナタ」を振るえと喝破するのだった。
そもそも、資本主義の「資本」とは富の象徴ではない。
資本は、社会秩序維持のための、準備金であり、貯蓄であると説く。
貯蓄は事後的に投資と等しくなり、投資の累積が資本となるというのだ。

すなわち、資本は救済のためにある。

いざというときの救済である。
だから、企業のトップは資本の中の内部留保を、「いざというときのため」と何度も言っていたではないか?
リーマンショックのときに私は幾度もその言葉を聞いた。
そして、景気回復後の世界における競争に打ち勝つために内部留保を「使うわけにはいかない」と締めくくっていたと思う。
ゆえに、労働者に還元されることもなく、うずたかく積まれた内部留保をながめるだけで、人々は辛酸を嘗めさせられたのだった。
※去年の三月末時点で日本の企業の内部留保は463兆円だったそうだ。

ダランベールは「奢侈とは快適な生活を得るために、富や勤労を使うこと」だと説いた。
その上で「奢侈」が「度を越さぬ」ように「恥」によってコントロールするのだと説いたのである。

「ショックドクトリン」とは大惨事便乗型資本主義のことらしい。
今のコロナ禍のような、あるいは世界大戦や、大震災などで「ぼろ儲け」をする資本主義を言うのだろう。
ショックドクトリンにおいて、我々が気づくのは資本家には微塵も「羞恥心」はないということだった。
こうして天文学的金額を所有する「数千人の金持ち」と、雀の涙のカネを、爪に火を点すように使って永らえている「数十億人の貧乏人」の二極化が起こっている。

もし企業の内部留保が「非常時の備え」だと言うのなら、今それを使わずしてどうするのだ?
一国の首相が、国債を発行して「国民全員に10万円を配る」だの「二枚のマスクを各世帯に配る」だの、できもしないことに無駄金を使うのなら、首相が大企業に身銭を切らせるべきだと水野氏は言うのだ。
具体的には中西経団連会長に132兆円の減資を要請するのである。
資本を削れと。
株主の猛反対があるだろうが、本来、従業員と預金者に支払うべき賃金と利息を不当に値切った金額が132兆円なのである。何の遠慮がいるだろうか?
そして日本全体の危機なのだから、「日本株式会社」として全労働者、全預金者に還元すべきだと水野氏は大胆発言をぶち上げる。
こうして、休業要請に対して十分な補償をし、医療崩壊を防ぐための手当てに使い、賃料補償もしてやれば、かなりの人々が救われるというものだ。

水野氏はケインズを引いて、人々にも訴える。
ケインズは「世界恐慌」からの脱出の道筋を示した経済学者ゆえ、今回の新型コロナ禍でもケインズに学べというのだろう。

「自分自身に対しても、どの人に対しても、公平なものは不正であり、不正なものは公平であると偽らなければならない。なぜならば、不正なものは有用であり、公平なものは有用でないからである」
このケインズの言葉はシェークスピアの『マクベス』からの引用らしい。
つまり資本は人類救済のためにあるのだから、不正な蓄財で資本を増大させることも大目に見て来た。だから内部留保に課税することは不正を有用だと認めることになるので、減資によって市場に返還すべきだというさっきの水野氏の大胆発言につながるのである。
「偽りの時代」が近現代だとすれば、ケインズ、いやシェークスピアもそれを予言していたことになるだろう。

『ベニスの商人』で法学士に扮したポーシャは慈悲をシャイロックに求めるが、契約を重視するシャイロックはそれを拒否し、最終的に財産を没収されるという喜劇になっている。
シェークスピアもケインズも「利子生活者の安楽死」と「資本主義の終わり方」を予言していたのだろう。

水野氏は、我慢の先に「ウィルスと共生する社会」と「新しい生活様式」を国民に要請するのは感染症対策よりも経済を重視する姿勢が透けて見えるとした。
テレワークの推進なども、そうできない仕事、医療現場の人びとに対して命を危険にさらすことを隠蔽しているようにしか見えない。
テレワークの推進であらたな経済効果が見込めるかもしれないが、それは恒久的なものだろうか?
観光インバウンドに頼ったこれまでの日本経済と同じ轍を踏まないか?

さて「あるべき新しい生活様式」とはどんなものなのだろうか?
これまで、右肩上がりしか経済に求めてこなかったことが新型コロナ禍の根底にあるような気がしてならない。
「より速く」、「より遠く」、「より多く」を求めすぎたことがそうだと水野氏が指摘する。
これからは「より近く」、「よりゆっくり」と「自分の必要な分だけ」を稼ぎ、買うことにするのである。
これが新しい「様式」だ。
ケインズは言う。
「貪欲は悪徳であり、高利の強要は不品行であり、貨幣愛は忌み嫌うべきものであり、そして明日のことなど少しも気にかけないような人こそが徳をもった人である」と。
このケインズの原則ともいうべき至言を達成するには、資本を過剰に保有するゼロ金利社会でなければならない。
資本は将来の社会危機への投資であり、資本が過剰だからゼロ金利でいいのだ。
効率化を求めず、純輸出も求めない。
新たな設備投資は求めず、グローバリゼーションを抑制する。
すると労働時間が節約でき、余暇が増える。
ケインズが提案する「余暇を賢明で快適で裕福な生活のために使う」という「生活様式」に変更できるのだ。

「より良いもの」、「より便利なもの」を「早くほしい」と欲しなければ、もっと身の丈に合った質素で質の良い生活ができるものだ。
内国で生産し、内国で消費することがいちばんよい経済だと私も思う。
今回のコロナ禍で、日本の経済や生産が他力本願だったために、窮地に立たされたわけだから、大転換が必要な時期に来ていると思う。
左翼とケインジアンは健在だ。