みすゞの祭壇のお花を入れ替えました。

みすゞの祭壇
もうヒマワリの季節なんだね。
トルコギキョウと。
余った花材は花瓶に投げ入れで。

投げ入れ
紅紫の菊が、気に入ったのでね。
お花も、夏なのに種類が少ないのは、新型コロナウィルスのせいかもしれません。
夏の菊もまたいいものです。

話は変わりますが、開高健の『夏の闇』という作品があります。
私はこういう小説が書きたいと常々思っていたのです。
『輝ける闇』の続編という位置づけで、頃はベトナム戦争の時代です。
実際に開高がベトナムの戦場に取材に赴いていたのは広く知られていますね。
そういった経験から、人間の極限における生と性、死が毎日のように訪れる戦場と無力感を作家は己の事として文章に編まざるを得ない。
私小説なんですよ。完全な。
だからこそ、抗い得ない運命に身を置く作家は、それを赤裸々に綴るんです。
何と言っても、開高の性描写が秀逸なんですね。
これは文学といって恥じない。ポルノなんかでは決してないのです。
主人公の「私」に一通の手紙が、女から届くのです。
彼女とは一緒に意見を戦わせた戦友のような存在のようです。
知的で勝気で、世界を股にかけて自分の思うままに生きる歴史学者らしい。
そして性にも奔放である…そんな女性に魅力を感じませんか?

そんな強そうな女でも、古傷がうずくのか、昔の戦友たる「私」に「会いたい」という手紙をよこすのです。
旧交を温める二人…
おそらくパリであろう、木賃宿のような粗末なホテルの一室に仮住まいしている「私」のところへスーツケース一つで転がり込んでくる。
彼女は今、大きな博士論文の執筆に立ち向かっている最中だった。
最後に別れてから十年は経つらしいことが二人の会話から知れる。
女は四十になっているか?
「私」とは年が近い日本人。
どちらが年上だとかは、まったく必要のない詮索だった。
「私」の部屋に入ったとたんに、女は、
『全裸になって佇んでいた。おぼろな薄明のなかに橋脚のようにたくましい太腿(ふともも)が青銅の
蒼白さで輝いている。女は両腕をさしかわしてたわわな乳房をかかえ…』
そうして低く言うのだ。
「私、まだ見られる?」と。
年を経て、劣化しているであろう、自分の姿を愛人にさらけ出すことへの恥じらい。
十年も逢っていなければ、当然の思いに違いない。
私にはよくわかる。
それでも「抱いてほしい」という気持ちの方が勝っているのだ。
「私」は「もちろんだ、おいで」と女を導くのだった。

『女は暗がりをかけ、ベッドにとびこむと、声をあげてころげまわった。朝の体は果実のように冷たくひきしまり、肩、乳房、下腹、腿、すべてがそれぞれ独立した小動物のようにいきいきと躍動し、ぶつかりあい、からみついてきた』
そうして、女は、
「待ってた。待ってたの」と、うめいてたおれるのだった。

この久しぶりの逢引きの描写に、私はとても感動を覚えるのだった。

この文庫(新潮)はもう何度も開いて、扉がばらけてしまって落ちるから、とても読みづらくなってしまった。
カバーも擦り切れて、そのうちに解体するだろう。

『私はうとうとと眠ってはさめ、さめては眠った。そして体表の繊毛のどこかがそよぐと女をベッドにさそった。いつ、どのようなときにさそっても、女は眼鏡をはずすようにしてボール・ペンをおいて椅子からたちあがり、ベッドにネコのように肩をすぼめてしのびこむ。そして全身で応じて果てたあと…(中略)テーブルのほうへよっていくのだった』
女は「私」の部屋で博士論文に挑んでいるのである、そんな女に「私」は劣情を催して誘うのだが、女は厭わずに応じてくれ、終われば、仕事に戻るのだった。
どうだろう?こんな男女の関係って、うらやましく思わないだろうか?
究極の「割り切り」である。
互いを尊重しているから許される行為だ。
『いつでも女はいさぎよく椅子からたちあがった。歳月を埋めるためか、ぐにゃぐにゃしたものの膨張を食いとめるためか、私は真摯と即興を思いつくまま尽くした。ベッドでし、床でし、椅子でし、浴槽でし、うしろからし、よこになってし、すわってし、たってした』云々。

「真摯と即興を思いつくまま尽くす」という性交の表現は開高にしかできないだろう。

中国語で開門紅(カイメンホン)という縁起の良い言葉があるが、それは隠語としても作用するエピソードが語られる。
おもにベトナムの華僑が使う言葉らしいが、女性器になぞらえるのだそうだ。
『鼻先すれすれのところに壮観があらわれる。顔をもたげるまでもなく全容が眺望できる。そこにまるで時間が流れなかったかのような気配なので愕(おどろ)きをおぼえさせられる。なつかしさがあがってくる。小皺を集めてしっかりと閉じた肛門のかなしげな、とぼけて親しそうな、それでいて嘲っているような奇妙な顔つきも、淡褐色のくちびるをひらけるだけひらいた、びしょぬれの玄も、そのはぜたような赤いせりだしのたたずまいも(以下略)』

私が、これはポルノではない、純文学だというのはこういう表現が根拠だ。

ベトナムのサイゴンかどこかで、男の垢すりさんに垢をすってもらった話が『輝ける闇』であったと思う。
二人の男性の垢すりさんは、小男と長身の男のペアで、二人とも素っ裸でやってくれる。
そのとき「小男の大まら」をしげしげと観察する場面があった。
岡村隆史が風俗嬢に人気なのは、彼が、小男なのに、びっくりするような「モノ」をお持ちだからと言われており、ちやほやされて彼もまんざらではないから、風俗通いがやめられないのだと聞く。

砲撃の音を遠くに聞きながら、女といたすサイゴンの夜。

そういった描写も好きだ。刹那的だからだ。