拙著「アンコ椿は恋の花」に『伊豆の踊子』のことを少し取り込んでみたわけですが、私自身、ちゃんと読んでいなかったんですね。
母が持っていたので、岩波文庫の『伊豆の踊子』を再度、じっくり読んでみました。
この文庫は川端が二十代のころに書いた短編を集めた構成になっていて、表題作も彼の若い頃の作品だったのです。
みずみずしい筆致…とでもいいましょうか。
川端康成の、一高生時代の思い出深い一人旅を物語にしたのでしょう。
だから事実も含んでいるんだと思いますよ。

トンネルから話が始まるのは『雪国』を彷彿させます。
「天城峠」の天城トンネルは、本作を映画化されたときから名所になってつとに有名になりました。
修善寺温泉から天城越えを経て下田に向かう、伊豆半島縦走紀行になっています。
「私(川端)」が修善寺で出会ったであろう、旅芸人一座を天城峠前の茶屋で追いつきます。
雨に降られ、雨宿りのつもりが、長居してしまう。
旅芸人一行は先に出てしまったようだ。あの愛らしい踊子も一緒に…
「私」は十七くらいの可憐な踊子の少女が気にかかる。初恋だろうか?
つまりは見初めてしまったのだ。

天城トンネルまで茶屋の老婆がついてきてしまった。どうやら、茶代が過分だったといって「こんなにはもらえない」と追っかけてきたのである。
茶店の奥で、いろりで暖を取らせてもらい、雨に濡れた着物を乾かさせてもらった。
いろりのそばには、体の不自由な、老婆の夫であろう老人が死んだようにくすぶっていた。その老体をいたわる気持ちもあって、「私」は五十銭銀貨一枚を置いてきたのだった。

なんとか旅芸人一行に追いついた「私」だったが、そのままばつが悪いので追い越した。
先には、その一行を引っ張っている印半纏姿の二十五、六の兄さんが離れて歩いている。
男は話し好きで、「私」にいろいろ聞いてくる。
そこから「私」と旅芸人一座と道連れになっていくのです。

あの茶店の老婆でさえ、蔑んでいる「旅芸人」という人種との同行。
部落では「旅芸人立ち入り禁止」なんていう立て札さえある。
彼らは、伊豆大島から来たんだという。
そして伊豆下田から、大島へ帰っていくのだという。
四十くらいの年増(としま)がいて、男と同い年くらいの病み上がりのような女性いて、そして「私」が気にしている踊子の少女、もう一人、踊子の少女の五人という団体だった。
踊りに使う大きな太鼓や、家財道具一式をみながめいめい持って、湯の町を転々とする毎日だそうだ。
男の話によると、病み上がりのような女性は、男の嫁で、最近、赤子を生んだが死なせてしまい、もうすぐ四十九日になるのだそうだが、産後の肥立ちが悪く、弱り切っていた。

湯が野で「私」と旅芸人の一行は宿を取ります。
夜に、向かいの旅籠の宴会に芸人たちは呼ばれ「仕事」をしました。
夜遅くまでその宴は続き、踊子たちの囃子も止みませんから、「私」は眠れない。
騒音だけが理由ではなかった。あの踊子の娘がその夜、汚されるのではないかと「私」は煩悶して寝られなかったのです。
夜中に「私」は湯に入りに行きます。「湯を荒々しくかき回した」という表現をどうとりますかね?
たぶん、若いんですから、いてもたってもいられなくなり、自慰行為にふけったと思いましたよ。
男の人って、「出して」しまうと落ち着くんでしょうから。

翌日「私」は「薫」の裸体を風呂場で見てしまいます。
その姿態は、「女」ではなく小児といってもいいくらいの未発達な体でした。
むしろ「私」は安堵したのです。
自分が勝手に十七くらいだと思っていた娘は、化粧を落とし、裸体になると、まだほんの子供だったからです。
つまり、川端青年は「ロリコン」ではなかったのです。

男の話では、同行の四十のおばさんは、彼の嫁の母親だといい、なんと「私」の思い人は「薫(かおる)」と言う名で男の十四になる妹だというのです。

薫は愛らしく、「私」を兄のように慕ってくれます。
また五目並べをすると、かなりの腕前で、手加減してやる必要のないほどで、そんなところも好もしかった。

下田から、薫たちは大島へ渡っていきますが、「私」にも大島まで一緒にと誘うんですね。
「私」はそろそろ旅費も尽きてきているし、学校も始まるので固辞して、薫と別れるんです。

帰りの船の中で「私」は少し年下の少年と一緒になります。
そして、薫との別れによる涙を少年に見られてしまう。
その少年のマントの中に潜り込んで、彼の体温を感じながら慰められるんです。
少し同性愛的な部分があって、川端の生い立ちからくる寂しさの発露なのではないかと考えられるのです。
川端康成が入学した第一高校は東京帝大の予備門で、全寮制の寄宿生活で、もちろん男子校です。
川端が同性に思慕を抱いても不思議ではありません。
思春期の男の子同士が愛に目覚めることは美しいじゃないですかね。
いきなり女に走るよりは、ずっといい。
まあ、それは人それぞれですけれど。

「私(川端)」が薫という、まだ初潮を迎えたばかりの少女や、思春期の男の子に心を奪われたということは、のちの彼の作品に大きく影響しているような気がするのです。
そういえば、宮澤賢治にもそういうところがありましたっけね。

『伊豆の踊子』は、もっと男性に読まれていい作品だと思いました。