この映画は、俳優を変えて何度も作られているようで、今回私がアマゾンプライムで観たのは日活配給で吉永小百合・浜田光夫主演の、たぶん、もっとも有名なものだと思う。
ただ、私たちの世代以降では、この映画を観た人は少ないけれども、主題歌の西条八十作詞、服部良一作曲の『青い山脈』は知っている人は多いのではないだろうか?
介護施設での歌の時間に『ふるさと』とともによく歌われていて、お年寄りにとって歌いやすく、はつらつとした若いころを思い出すのにはうってつけの楽曲だ。
石坂洋次郎という現在では忘れ去られた作家の手になる原作なのだが、私の父はこの作家の『若い人』を持っていて、書庫を探せば、黴(かび)だらけになった上製本が出てくるだろう…
『青い山脈』を鑑賞しつつ、ある物語を私は思い起こした。
夏目漱石の『坊っちゃん』である。
あれは教師目線の話で、学生は添え物だったけれど、「赤シャツ」風、「野だいこ」風、「山嵐」風の教師、「マドンナ」とも言えなくはないヒロインが登場する。
そんなことは、どうでもいいことなのだけれど、戦後しばらくして、日本に民主主義が定着しつつあった、私立女子高校が舞台の話なのである。
そこに新たに赴任してきた、新進気鋭の若い女の英語教師島崎雪子(芦川いづみ)と、彼女より少し前に、不純異性行為のえん罪で前の学園(共学校)を退学してきた三年生の寺沢新子(吉永小百合)が、旧弊な学園側教員と女学生の間で摩擦を起こし、PTAや街の名士を巻き込んで学校挙げての問題に発展してしまうという話。
民主主義や女性の地位向上なんていうのは表面だけで、女はつましく、男に従い、早く嫁に行って、子供を作るのが幸せだという、超がつくくらい保守的な考えを建学精神としている女子高校に、開化した頭の女性二人が入学してきたわけだから、摩擦が起きないはずがない。
そこへ火に油を注ぐように、校医の沼田玉雄(二谷英明)が二人の女性を焚きつけて騒ぎが大きくなっていく。
沼田は町医者で、父親も開化的考えの持ち主だったらしく、その後を継いで開業していたのである。
事の発端は、寺沢新子に恨みを持つ松山浅子(進千賀子)が学友と語らって新子を陥れようと、男子学生を装って偽のラブレターを郵送したことだった。
新子はその偽装を直ちに見破って、担任の島崎雪子に相談する。
「クラスに、これを書いた犯人がいるはず」と。
彼女らは、医務室でその話をしていたのだが、そこに校医の沼田が足にけがをしたテニス部員をつれてきたことで中断するも、帰り道で島崎教諭は沼田にラブレターの件を話す。
ところが、沼田の事なかれ主義に対し、少なからず絶望をた島崎雪子だった。
寺沢新子は、松山浅子の制服を汚してしまったので弁償するため、実家の鶏舎から得られる鶏卵を売りに街にでる。
実は映画の冒頭、寺沢新子の登場が、すごいのである。
新子はバイクで暴走し(?)ながら登校してくるのである。
それで驚いて、自転車ごと倒れる松山浅子は、まっさらな制服を台無しにしてしまう。
これだけでも、新子が反感を買うのは必至であるが…
そういうわけで卵の売れ残りを、金物屋の店番の息子、金谷六助(浜田光夫)に売りつける。六助は大学受験二浪中で、両親が外出の合い間に店番がてら、受験勉強に励んでいた。
そこに新子が卵の売れ残りを買ってくれと飛び込んできたのである。
六助はからかい半分で、「じゃあ晩飯をつくっていってくれよ。できんだろ?」と挑発し、負けず嫌いの新子が持ってきた卵を全部使って料理をこしらえる。
夫婦のように睦まじく、夕飯をかこむ二人、そこへネズミが飛び出し、新子が驚いて六助に抱き着いてしまったところを客に見られてうわさになり学校の教員の耳にも入る。
「なんという、破廉恥な」
クラスメイトも新子が校風を乱す元凶だと糾弾し、学校を去ってくれと言い出す始末。
私は、つねづね、女の敵は女だと言っているが、この映画でも、そうなのだ。
女の中にも、革新的な女と、保守的な女がいる。
男尊女卑の考え、家を守るのが女の役割、女は子供を産み育ててなんぼ、というような考えは、むしろ女の人の方がそうなのだ。
男の方が、女性の地位向上を真剣に考えていることもあるくらいだ。
女は安定を好むのだと説明されるが、そういうあてはめこそ、女性を自ら縛っている。
六助には親友で、先に地元の大学に入ってラグビーにいそしむ髭づらの「ガンさん」こと富永(高橋英樹)がいた。
六助も富永も新子にあたらしい女性像を見た。
そして沼田も雪子に恋情を抱くようになる。
「青い」とは単に色のことではなく、「尻が青い」つまり「未熟」だという保守派からの揶揄と、「未熟だからこそ、衒わない、自由な考えを持つのだ」という脱皮する新しい世代を表しているのだと思う。
「青春」という言葉が、この映画が封切られた1963年あたりから世間に流布し、フォークシンガーの作詞や、ドラマで声高に叫ばれるようになった。
この映画も最後は、海に向かって「好きだ!」と叫ぶシーンで大団円を迎えるのだった。
海に向かって叫んで「木霊」が返ってくる演出が「?」だったが、細かいことは言うまい。
この映画で有名になった「変しい、変しい…ぼくの変人」はPTAを交えた会議で、証拠の品として新子に送られた手紙を、教頭が読み上げるシーンなんだね。
「恋」の字を、「変」と書き間違えた、偽装ラブレターも、書いた者の恥をさらしただけで、何の結果ももたらさなかった。
そして、体育教諭の田中(藤村有弘)が赴任直後の島崎雪子に岡惚れして、密かにラブレターを本に挟んだが、その本を雪子から借りた白木教諭(北林谷栄)が読んでしまい、その会議で意趣返しに、手紙を読み上げて暴露し、島崎教諭を排除しようとする田中に一矢報いるシーンに観る者は留飲を下げる。
この会議の一部始終をガンさんの学友がアマチュア無線で実況中継するというシーンがある。
大学の学生寮ではその中継を傍受する新子たちがいた。
このアイデアは、唐突なんだけれど、私は藤村有弘が関係しているのではないかと直感した。
俳優、藤村有弘はJA1BANというコールサインでアマチュア無線界ではつとに有名で、上級ハムだったのと記憶している。
この映画で藤村氏は、損な役回りだったけれど、裏方では手製のアマチュア無線機の手配なんかを買って出たのではないだろうか?
この部分は、ほかの『青い山脈』にはない演出・脚色であるのが特徴でもある。
ものすごく、わかりやすい短い映画なので、ぜひ皆さんもご覧になってほしい。
「民主主義とは何か」、「自由とは何か」、「新しいことをやっていく困難」、「わかり合えるとは」を端的に伝えている佳作だと思う。
ただ、私たちの世代以降では、この映画を観た人は少ないけれども、主題歌の西条八十作詞、服部良一作曲の『青い山脈』は知っている人は多いのではないだろうか?
介護施設での歌の時間に『ふるさと』とともによく歌われていて、お年寄りにとって歌いやすく、はつらつとした若いころを思い出すのにはうってつけの楽曲だ。
石坂洋次郎という現在では忘れ去られた作家の手になる原作なのだが、私の父はこの作家の『若い人』を持っていて、書庫を探せば、黴(かび)だらけになった上製本が出てくるだろう…
『青い山脈』を鑑賞しつつ、ある物語を私は思い起こした。
夏目漱石の『坊っちゃん』である。
あれは教師目線の話で、学生は添え物だったけれど、「赤シャツ」風、「野だいこ」風、「山嵐」風の教師、「マドンナ」とも言えなくはないヒロインが登場する。
そんなことは、どうでもいいことなのだけれど、戦後しばらくして、日本に民主主義が定着しつつあった、私立女子高校が舞台の話なのである。
そこに新たに赴任してきた、新進気鋭の若い女の英語教師島崎雪子(芦川いづみ)と、彼女より少し前に、不純異性行為のえん罪で前の学園(共学校)を退学してきた三年生の寺沢新子(吉永小百合)が、旧弊な学園側教員と女学生の間で摩擦を起こし、PTAや街の名士を巻き込んで学校挙げての問題に発展してしまうという話。
民主主義や女性の地位向上なんていうのは表面だけで、女はつましく、男に従い、早く嫁に行って、子供を作るのが幸せだという、超がつくくらい保守的な考えを建学精神としている女子高校に、開化した頭の女性二人が入学してきたわけだから、摩擦が起きないはずがない。
そこへ火に油を注ぐように、校医の沼田玉雄(二谷英明)が二人の女性を焚きつけて騒ぎが大きくなっていく。
沼田は町医者で、父親も開化的考えの持ち主だったらしく、その後を継いで開業していたのである。
事の発端は、寺沢新子に恨みを持つ松山浅子(進千賀子)が学友と語らって新子を陥れようと、男子学生を装って偽のラブレターを郵送したことだった。
新子はその偽装を直ちに見破って、担任の島崎雪子に相談する。
「クラスに、これを書いた犯人がいるはず」と。
彼女らは、医務室でその話をしていたのだが、そこに校医の沼田が足にけがをしたテニス部員をつれてきたことで中断するも、帰り道で島崎教諭は沼田にラブレターの件を話す。
ところが、沼田の事なかれ主義に対し、少なからず絶望をた島崎雪子だった。
寺沢新子は、松山浅子の制服を汚してしまったので弁償するため、実家の鶏舎から得られる鶏卵を売りに街にでる。
実は映画の冒頭、寺沢新子の登場が、すごいのである。
新子はバイクで暴走し(?)ながら登校してくるのである。
それで驚いて、自転車ごと倒れる松山浅子は、まっさらな制服を台無しにしてしまう。
これだけでも、新子が反感を買うのは必至であるが…
そういうわけで卵の売れ残りを、金物屋の店番の息子、金谷六助(浜田光夫)に売りつける。六助は大学受験二浪中で、両親が外出の合い間に店番がてら、受験勉強に励んでいた。
そこに新子が卵の売れ残りを買ってくれと飛び込んできたのである。
六助はからかい半分で、「じゃあ晩飯をつくっていってくれよ。できんだろ?」と挑発し、負けず嫌いの新子が持ってきた卵を全部使って料理をこしらえる。
夫婦のように睦まじく、夕飯をかこむ二人、そこへネズミが飛び出し、新子が驚いて六助に抱き着いてしまったところを客に見られてうわさになり学校の教員の耳にも入る。
「なんという、破廉恥な」
クラスメイトも新子が校風を乱す元凶だと糾弾し、学校を去ってくれと言い出す始末。
私は、つねづね、女の敵は女だと言っているが、この映画でも、そうなのだ。
女の中にも、革新的な女と、保守的な女がいる。
男尊女卑の考え、家を守るのが女の役割、女は子供を産み育ててなんぼ、というような考えは、むしろ女の人の方がそうなのだ。
男の方が、女性の地位向上を真剣に考えていることもあるくらいだ。
女は安定を好むのだと説明されるが、そういうあてはめこそ、女性を自ら縛っている。
六助には親友で、先に地元の大学に入ってラグビーにいそしむ髭づらの「ガンさん」こと富永(高橋英樹)がいた。
六助も富永も新子にあたらしい女性像を見た。
そして沼田も雪子に恋情を抱くようになる。
「青い」とは単に色のことではなく、「尻が青い」つまり「未熟」だという保守派からの揶揄と、「未熟だからこそ、衒わない、自由な考えを持つのだ」という脱皮する新しい世代を表しているのだと思う。
「青春」という言葉が、この映画が封切られた1963年あたりから世間に流布し、フォークシンガーの作詞や、ドラマで声高に叫ばれるようになった。
この映画も最後は、海に向かって「好きだ!」と叫ぶシーンで大団円を迎えるのだった。
海に向かって叫んで「木霊」が返ってくる演出が「?」だったが、細かいことは言うまい。
この映画で有名になった「変しい、変しい…ぼくの変人」はPTAを交えた会議で、証拠の品として新子に送られた手紙を、教頭が読み上げるシーンなんだね。
「恋」の字を、「変」と書き間違えた、偽装ラブレターも、書いた者の恥をさらしただけで、何の結果ももたらさなかった。
そして、体育教諭の田中(藤村有弘)が赴任直後の島崎雪子に岡惚れして、密かにラブレターを本に挟んだが、その本を雪子から借りた白木教諭(北林谷栄)が読んでしまい、その会議で意趣返しに、手紙を読み上げて暴露し、島崎教諭を排除しようとする田中に一矢報いるシーンに観る者は留飲を下げる。
この会議の一部始終をガンさんの学友がアマチュア無線で実況中継するというシーンがある。
大学の学生寮ではその中継を傍受する新子たちがいた。
このアイデアは、唐突なんだけれど、私は藤村有弘が関係しているのではないかと直感した。
俳優、藤村有弘はJA1BANというコールサインでアマチュア無線界ではつとに有名で、上級ハムだったのと記憶している。
この映画で藤村氏は、損な役回りだったけれど、裏方では手製のアマチュア無線機の手配なんかを買って出たのではないだろうか?
この部分は、ほかの『青い山脈』にはない演出・脚色であるのが特徴でもある。
ものすごく、わかりやすい短い映画なので、ぜひ皆さんもご覧になってほしい。
「民主主義とは何か」、「自由とは何か」、「新しいことをやっていく困難」、「わかり合えるとは」を端的に伝えている佳作だと思う。
日活よりももう少し古い作品
昔高校の先生から聞かされた話。
昔の教育制度では男子は旧制中学
女子は旧制高女(どちらも5年制)
昭和23年4月高校1・2年生(旧制中学4・5年) (旧制高女4・5年)を対象に
男女共学を新制高校で実施するには
先生も生徒もペアとなる中学+高女で
シャッフルする(くじ引き)ことで
新生の高校に分かれることになる。
しかし埼玉とか宮城とか・・などは
男女共学にならないで
旧制のまま男子校 女子高で
そのままの学校もある。
井上ひさしの青葉茂れるは
仙台一高 旧制のまま・・
こういうのもいいと思う。
多様性を言うならば男女比で
採るのではなく、学校の自主基準で
合否を決めるべきだと思う。
昭和24年の映画 青い山脈
弘前高等学校(旧制)と
青森の高等女学校が出てくる。
弘前高校生は既に旧制中学を終了
3年の高等学校生活を終えると
大学に入るから女学校生徒よりも
年上・・ 新子と六助は人も羨む
カップル 偽ラブレター
変しい変しい貴方様という珍事件が
登場する。
弘前高校の六助は元NHK鈴木健二が
モデルだと言われている。池部良
何度もリメイクされている学園物の定番
先生が原節子 東京から都会の香りを持ってきたような 素敵な先生
新子役は 杉葉子 美人でスタイルがよく
結婚して海外で暮らすよ先駆け