世の中から隔絶されて、本に埋もれて生活していると、久しく人の声を聞かないことに気づく。
もちろんラジオやテレビの音声は聞いているのだけれど。
かなり古い新潮文庫の『破戒』を先月に掘り当てて、ゆっくり読んで、今日読み終えた。
長かった。
並行して数冊の本を斜め読みしているのだけれど、『破戒』は腰を据えての向き合いとなった。
暗い話である。
私は暗い話ならとことん暗い方がいいと思っている。
救いようのないどん底、そう言えば、ゴーリキーの『どん底』も手元にあるのだが…それは置いといて『破戒』である。

被差別部落民の悲哀と書けば、それはあまりにも表面的すぎよう。
穢多(えた)という四民からも除外された最低民の出自を持つ主人公、瀬川丑松(せがわうしまつ)の生きざまを描いた大河小説である。「大河」は言い過ぎかもしれない。
千曲川流域の信州地方が舞台だ。
明治時代になって新しい日本が船出をした、華々しい世界とは全く縁のない、置いて行かれた存在が丑松たちなのだった。
置いて行かれるだけならまだましだろう。
穢多の身分が世間に知れてしまったら、直ちにひどい差別を受けるのである。
だから隠す生き方を、穢多の人々は幼いころから親に叩き込まれる。
それが「戒め」なのだった。
丑松は父から強く戒められた「出自を明かすな」という教えをついに「破る」のである。
本書の題名はそこに由来する。
丑松は小学校の教員として、師範学校を出て赴任していた。
子供達にはとても慕われる先生だったが、校長やその甥の教員勝野文平は、丑松の開化した民主的な意見や態度が鼻につくと嫌っていた。
校長はまた郡視学(文部省の役人)にゴマをすり、自身の立場をゆるぎないものにすることに執心している。
ことに、この地で議員の選挙が近いというので、校長は議員との癒着もあった。
丑松が穢多の出身であるということは、当初、学校の誰もが知らなかった。
物語が進むにつれて、丑松の行動が「やつは穢多じゃないか?」と憶測を誘うようになるのである。
その一つが、大日向(おおひなた)という成金男が飯山の病院で診療を受けるためにその近くの宿に泊まっていたのだが、彼が「穢多」であることが知れ、宿から追い出され、石もて追われる様に丑松が出くわし、彼に同情するところや、穢多出身の思想家猪子連太郎(いのこれんたろう)の著書『懺悔録』を大事に抱いているところなどが周囲に知られてきたからだ。

明治新政府になって、四民平等が叫ばれ、穢多や非人という低層民も「新平民」という名で呼ばれ、それがために差別が残ってしまった。
四民平等の制度から置いて行かれた人々があったのである。
その被差別者への仕打ちは、大日向氏の例でも明らかだが、彼らを一般人は暴力で排除するような、人権のみじんもない扱いなのである。
穢多はこの地では「調里(ちょうり)」とも呼ばれ、また「四足(よつあし)」などとも隠語で呼ばれた。
その仕事は、牛馬解体、皮革職人、墓掘り人足など人の嫌がる仕事ばかりで、そのわりに決して尊敬されないのである。
一般人の家に招かれても、彼らは土間までしか入ることを許されない。上がり框に腰かけるまでである。
そういったあからさまな差別が、まかり通っている千曲川流域だった。
丑松の父も牛の放牧(牛を預かって放牧する仕事)をしていたが、いきり立った雄牛に角で突き殺されてしまう。
その葬儀に丑松も参列するが、穢多であることを知られないように伯父たちと、いろいろ工夫するのが涙ぐましい。
丑松の父の墓所は、父の遺言の通り、山の中にひっそりと置かれたのであった。
死んでも丑松の父は穢多であることを知られないように心を砕いたのである。

丑松は独り者だったので、学校に下宿から通うのだが、たびたびその下宿を変えた。やはり身分がばれることを恐れたのだろう。
最終的には真宗の寺の間借りすることになるのだが、そこの尼さん志保に思いを寄せる。志保は不幸な女で、丑松の通っている小学校の教員、風間敬之進の娘だった。
敬之進は酒好きで、職務怠慢なために老齢を理由に退職を迫られていた。
敬之進の家も貧しく、穢多ではなさそうだったが、後妻とその子供らと農地を耕して暮らしている。
継母との折り合いも悪く、志保は家を出てその寺に入ったのである。
住職夫妻の養女として志保は暮らすことになったのだが、住職の女癖の悪さが志保に禍を及ぼしたのである。なんと養女に手を出したのである。
それで住職夫妻の仲もひびが入り、志保も寺を出る決心をするのだった。

丑松は新しい考え方の持ち主で新平民とて、皆と何ら変わらないということを心から思っていた。しかし彼の父は違ったらしい。だから「隠せ」と戒めたのである。
やはり自分たち穢多は、劣っているのだという悲しい思い込み、卑屈が差別をゆるぎないものにしていたことは事実だろう。
差別に甘んじてしまっていたのである。
もちろん差別する側に非があるのはわかるのだが、差別される側も異議を述べなかったことは一つの理由にはなろう。
とにかくすさまじい差別意識で、穢多は排されるべき人種だといわんばかりである。
素性が明るみになったらすぐに罪人のような扱いとなり、通報、排除という運びだ。
昨今、街にクマが出没して、それで騒ぎになっている事件にそっくりである。
だから、丑松は父の言葉を守って、教師生活を送っているのだった。
ところが猪子連太郎の「われは穢多なり」の言葉に啓発され、自分も身分を隠すのではなく、どうどうと明かそうという気持ちが高まるのだった。
猪子氏が、選挙に出馬するというので、この千曲川に来るという。あこがれの先生がやってくるというので、父の葬儀が終わった丑松は猪子氏の逗留先の宿に訪問するのだった。
想像していた通りの尊敬すべき猪子氏であり、丑松は「自分も穢多です」と打ち明けようとするが、できない。
信じた猪子にさえ、その戒めを破ることができなかった丑松は悩む。
それほど「穢多である」ということを知られることは恐ろしいことなのだった。
その告白が命にかかわってもおかしくないのである。
こんな凄まじい差別があるだろうか?あったのである。

猪子候補者の対立候補に高柳という政治家がやってくる。
この高柳はこの選挙を前に、ある豪農の娘を娶った。その豪農は「穢多」だったのだ。
高柳が丑松の素性を校長や郡視学にほのめかす。
猪子と丑松の親密さから、彼らは同じ穢多ではないのかと。
猪子候補の演説会は盛況で、選挙民も彼が穢多だと知っても、政治家として優れていると感じたようだった。
面白くないのは高柳である。
高柳は、反社会勢力を使って猪子を暗殺してしまうのだった。
とうとう、丑松は猪子に素性を打ち明けることなく、恩師を亡くしたことに後悔の念と、今こそ「破戒」を実行するときだと決意する。
高柳は猪子殺害教唆の廉で警察に連行され政治生命を絶たれた。

高柳は、選挙に協力しない丑松を憎み、ことあるごとに街の中で丑松の素性を吹聴したようだった。高柳が逮捕されても、丑松への偏見は丑松を追い詰めていく。
小学校の同僚も、理科教員の土屋銀之助を除いては、丑松が卑しい身分の出であることを疎んだ。
銀之助は最後まで丑松の味方だった。
丑松の「破戒」の決心は日増しに固くなっていく。
もう何も恐れることは無い。
おそらくそのことで、丑松は職を失い、またこの地に住めなくなることも予測していた。
郡視学が参観するその日の授業を無事に終え、生徒と丑松だけになった教室で、丑松は生徒にこれまで自分が「穢多」であることを隠して教えてきたことを詫びるのである。
まるで、犯罪者が犯罪を隠して善行をおこなってきたかのような、ある意味、屈辱の告白を慕ってくれた生徒の前で土下座して謝るのである。
なんでそこまでして…私は怒りに震えた。
「丑松、お前がどうしてそんなにして、床に額づく必要があるのだ?」
「おかしいのは世間じゃないか」
私ははからずも、丑松を責めた。

実際、同僚の間では、丑松が素性を隠して教師という聖職に就いていたことが「不誠実」だと責める者もいた。
まるで犯罪者が罪を償わずにそれを隠して何食わぬ顔で我々教師の中に紛れ込んでいたというふうに。
「穢多」に生まれたことが「犯罪者」と同格なのか?
そのことを隠してまでも生きて行かねばならない世の中に一石を投じた『破戒』なのだった。

丑松は、なんとあの大日向の誘いで、北米はテキサスの農場で人間らしく生きて行かないかと誘われ、生徒たちに見送られ、惜しまれて旅立つのだった。
若い生徒達に、「穢多」がどうした、そういう生まれでも関係なく立派な先生になった瀬川丑松の教え子として誇りに思うという気持ちを芽生えさせた功績は大きい。

加えて、作品すべてに島崎藤村の美しい表現が、信州の自然をつまびらかに表現し、暗い残酷な物語を和らげているのが救いだ。

「今晩は何にいたしやしょう」と主婦(かみさん)は炉の鍵に大鍋を懸けながら尋ねた。「油汁(けんちん)なら出来やすが、それじゃいけやせんか。河で捕れた鰍(かじか)もごわす。鰍でも上げやしょうかなあ」
「鰍?」と敬之進は舌なめずりして、「鰍、結構―それに、油汁(けんちん)と来ては堪(こた)えられない。こういう晩は暖かい物に限りますからね」
敬之進は酒慾(しゅよく)のために慄(ふる)えていた。


読み、訓読に独特のルビを振る藤村の文章は、なかなか格調高く感じさせてくれる。

盛んな遊戯(あそび)の声がまた窓の外に起こった。文平は打球板(ラケット)を提げて出て行った。校長は椅子を離れて玻璃(ガラス)の戸を上げた。丁度運動場(うんどうば)では庭球(テニス)の最中。

などという、表現も明治の世相を反映している。

その日は灰紫色の雲が西の空に群がって、飛騨の山脈を望むことは出来なかった。あの千古人跡の到らないところ、もし夕雲の隔てさえ無くば、定めし最早(もう)皚々(がいがい)とした白雪が夕日を帯びて、天地の壮観は心を驚かすばかりであろうと想像せられる。
(中略)
どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫時(しばらく)自分を忘れるというその楽しい心地に帰ったであろう。

このように自然を一幅の水墨画のごとく表現する技量は、彼の観察眼と、語彙の豊富さにあると感ぜられる。

私は、読了までに時間を要したが、途中、言葉や漢字を調べながら読んでいたからで、だからといって、投げ出すような内容ではない。そうまでしても読みたくなる作品だった。

醜い人間のエゴの最たるものが差別である。それを際立たせるために、自然の美しい描写が功を奏している。
信州の奥深い自然に抱かれた人々が、かくも残酷な差別を人に対してするのか?
丑松はしかし、差別に負けたのだろうか?
ある意味、そうかもしれない。
テキサスに逃げるということで、丑松は新しい旅立ちを企てたのだ。
ただ次世代の子供たちに「何か」を残したことは、猪子連太郎と瀬川丑松の大きな足跡だったと思いたい。