雪舟(1420~1502?)は「日曜美術館」(Eテレ)でも何度か取り上げられている。
「山水図」などが数点、伝わっており、ほとんどが国宝である。

雪舟の絵は、一目見て「雪舟だ」とわかる特徴がある。
一つは荒々しい岩の描き方である。
浸食によって、丸く穴を穿たれた奇岩がそうだ。
もう一つは、明(みん)に渡った約三年の経験が描かせる、直線的な建物だろう。
さらに、彼の山水画に特徴的な場面転換的手法だろうか。
秋冬山水図雪舟
この「秋冬山水図」(国宝)の秋と冬の季節の変わり目を一枚の絵にするために中央に切り立った崖のような、あるいは佇立する木のような線を大胆に引いているところなどがそうだ。
こういった独自の表現ができる画家が室町時代の日本にいたことがすばらしいことではないか。
備中岡山に生まれた雪舟は、最初「拙宗」と号していたらしいが、遅咲きの彼はまったく世間に知られていなかった。京都に出てきて相国寺に修行し、芽が出ないまま放浪し、周防の守護大名大内義弘に迎えられる。そこで「雪舟」と改名したようだ。
その頃の日本の画壇は、武家に禅宗が広まっていて、僧が禅画を描くことが流行していたのである。
禅画の手法は水墨画であり、大和絵のような鮮やかな彩色は忌避された。
禅にしろ、水墨画にしろ、日本では中国から輸入した文化だった。
雪舟はそんな中で禅と絵の修行に努めたのだった。
「涙で描いたねずみの絵」の逸話があるように、幼いころから雪舟は絵が達者で、のちに「画聖」と呼ばれるまでになるのである。
周防から、念願の明国へ遣明船で渡航し、約三年の間、本場中国で水墨画を極めるのだった。
天才的雪舟は明の水墨画に飽き足らず、時代をさかのぼって宋代の絵画の世界に傾斜し、そこに日本独自の詩興を合わせる独自性を表現したのである。
とうとう「破墨山水図」という奇抜な「印象派」とでも言うべき境地に達するのだった。

しかし、日本に戻ってきたとき、京の都は応仁の乱で焼け野原になっていた…
もはや老境に達していた雪舟だが、そこからが「山水画」を多く手がけた。
「慧可断臂(えかだんぴ)図」(国宝)に、雪舟の大器晩成を見て取れる。
特徴的な洞窟の岩の表現と、簡略化されて象徴的な「達磨」の着衣が好対照をなしている。
天竺の王子「達磨」の修行を描いたものだが、インド人らしいその風貌は、雪舟が中国で実際にそういう外国人に会ったからだろう。
禅画に珍しく、達磨の顏に彩色がなされていて、剛毛の筆による硬い髭のありさまが鋭いタッチで描かれている。
そして達磨の衣装である。
平筆で一気呵成に、途中、継いではいるものの、大胆に、いらないものは省いた描き方だ。
こういうところは禅画に通じる。
達磨に弟子入りを乞う「慧可」が、自身の腕を切り落として、意志の強さを表しているのだが、その腕の切り口を朱で染めているところが生々しい。

大内義弘に収めた「四季山水図巻」は中国の風景だ。
また「天橋立図」は、ありえない場所からの俯瞰図で、若狭湾の上空から見た図になっている。
想像だけで、ここまで正確に描いた雪舟は、驚くべき才能を持っていたことになる。
こういった正確な風景図は、実はパトロンの大内義弘の命で情報収集のために描かされたものだという説がある(学習院大教授、島尾新氏)。

美術の世界で、ことに絵画の世界では「空間恐怖(ホラー ヴァキュイ:horror vacui)」という考え方がある。
絵画において余白を嫌うことを言うらしい。
したがって空間恐怖を感じる画家は、空間を絵で埋めようとするのだ。
ところが日本画、ことに水墨画は空間の美を重んじる。
敢えて描かない、観る者に想像させる描き方をする。
山水画では遠近法の一種に「ぼかす」ことをする。
距離感を出すためにその間を霧(のようなもの)で隠す。
描いてないところには、まさに地の和紙(または絹)の生地そのままの色を残している。
江戸時代の若冲は描きすぎて空間を埋めている絵もあるが、よく見ると彼もやはり空間を利用している。
日本の絵はそういった「空間」の「存在」を前提にしているのではなかろうか?

水墨画の手法で「外隈(そとぐま)」という技法がある。
対象を描き残すことで、白地を浮き立たせる手法だ。
「描き残すことで描く」という矛盾を含んだ、禅味あふれる手法ではないか?
例えば「日輪」、つまり太陽を描くときに、太陽そのものを描くのではなく、そこを塗り残して、周囲を描き、もっとも光り輝く対象を表現するなどである。
浮世絵で「月」の表現にもある。

そうすると、ものの「存在」は周囲によってつくられるということにならないか?
神にしても、人間がいるから、神が存在するのだというように。
「陰日向(かげひなた)」という日本語にもそれが表れているように思える。
「あなた」がいるから「わたし」があるのだ。
One for All, All for One.