幕府や大名の命を受けて、他国へ派遣され情報収集する人々を「隠密」と呼んでいるのは、時代劇でもおなじみだ。
江戸幕府は将軍の「御庭番(おにわばん)」がその密命を受けていたとか、いなかったとか。
テレビドラマ『暴れん坊将軍』ではそう描かれていた。
「御庭番」は伊賀だか、甲賀だかの忍者の出身で…太平の世では「間諜(かんちょう:スパイ)」として「隠密」を担っていたという。
その史実について私は詳しいことを知らない。

ところが、俳諧師「松尾芭蕉」が「隠密」だったのではないか?という説が、かなり前からささやかれていた。
私は俳句が好きで、芭蕉についての論考などを目にすることが多いのだけれど、彼の隠密説を唱える研究者も少なからずいるのだ。
ひとつに、江戸幕府の治世では、各国(各藩)を縦横に行き来することは、一般人では難しかったという事情があり、そんな中で、やすやすと芭蕉と河合曾良(かわいそら)の二人は「奥の細道」を行脚するのだった。
とくに「奥州」は江戸幕府にとって、外様大名の知行地であり、彼らの情勢を知りたがったのである。
その「奥州」を重点的に吟行して歩いた芭蕉一行には、何か「特権」のようなものが存在したのではと、門外漢の私たちにも感じさせる。
芭蕉のように著名な「俳諧師」は、そもそも交通の自由が認められていたというか、「緩かった」らしい。
東海道で「お伊勢参り」を理由に「通行手形」が容易く旅行者に発行されたこともあったが、日光、奥州方面となると、事情が異なる。
さっきも書いたように、外様大名が治める藩が密集しているのだ。「奥州連合」とでもいうべき状況にあって、江戸幕府は普段から牽制していたのである。
芭蕉の奥州行の時代、日光東照宮が地震で損壊しており仙台藩が修理に当たっていたらしいが、その進捗が、幕府として懸念材料だった。
その巡察に幕府関係者が芭蕉たちを派遣した節があるのだ。
「奥の細道」では深川を発して、どういうわけか千住で時間を取っている。
この千住で要人に会っていたらしい。
千住の関東代官頭(だいかんがしら)の伊奈氏と会っていたらしいのだ。
関東代官は、関八州の土木事業の総監督でもあり、日光東照宮の修繕事業の目付もしていた。
芭蕉の江戸での後援者(パトロン)である杉山杉風(さんぷう)が、伊賀上野から出てきた「田舎者」の芭蕉に、治水土木の現場監督の職を斡旋したことと無関係ではないだろう。
芭蕉は生国で藤堂家に仕え、俳諧を極める傍ら、土木関係の事務方に就いていたことで杉風も芭蕉が土木事業に明るいということから、職を周旋しやすかったと思われる。
こうして、関東代官と芭蕉、曾良が相まみえ、代官からなんらかの「依頼」を受けたとしたら…
そうでないと芭蕉がわざわざ千住で時間を取った意味が不明なのだ。
さらにこの奥州路の長旅の「旅費」である。
決してお安いものではなかったはずだ。
だれが出費したのか?芭蕉自身はそんなにお金持ちではない。
門下生がいて、すこしずつ餞別をもらって旅立ったとしても、十分ではなかったはずだ。

やはり、公金がもたらされたのではなかろうか?
そこで河合曾良の身分が疑われるのだった。
この同行者はいったい何者なのか?
曾良こそ公儀隠密ではなかったかと、私は思うのだ。
道中の「為替」によるお金の工面は曾良が一手に引き受けていたというらしいから、非常に怪しい。
この「為替」の出どころは公金であろう。
公金が芭蕉に支払われることは、すなわち、この奥州行が「吟行」などではなく、「吟行」を装った隠密旅だったのだと推測できる。
おそらく、曾良が旅のルートも設定していたのではなかろうか?
芭蕉と公儀の間にどのような「ギブアンドテイク」があったのか推し量るしかないが、芭蕉という著名な俳諧師を公儀が利用したのだとすれば納得がいく。

芭蕉が忍者の血を引く(母方がそうだったらしい)とかの逸話はあまり問題ではないと思う。
それよりも、芭蕉が治水土木の事務に通じていたこと、門下生の多い江戸の俳諧師で、幕府も一目置いていたこと、曾良という信濃の伊勢長島藩の士(さむらい)が脱藩し、町人に身をやつして芭蕉の門下に入ったという経歴がすでに怪しい。
芭蕉は奥州以外に、とても多く旅をしている。
単に「吟行」として、そういう漂泊を続けたのか?謎は深まるばかりだ。

芭蕉のことはこれまでとして、同じように「雪舟」という室町時代の水墨画家もまた、為政者に利用された人物ではないかといわれている。
雪舟も漂泊の画家であった。
美濃、畿内から西は豊後を行脚して、ところどころで精密な絵を残したと言われているが、なかでも「天橋立図」は水墨画として不思議すぎる。
雪舟のパトロンは周防の守護大名、大内義弘だった。
政変に遭った将軍足利義尹(よしただ:義稙を改名)を援助する大内氏の密命を受け、丹後の一色氏の依頼で雪舟が天橋立付近の俯瞰図を描かせたというのだ。
この水墨画の不思議な点は、当時ではありえない視点、つまり若狭湾上空から見た図になっていることと、建物の状況、位置関係が詳細・正確に描かれていることだ。

また、時代は下るが、シーボルトが雇った絵師川原慶賀が隠密ではないが、当時の長崎湾の精密な絵屏風を描いた時に、幕府の軍事施設を敢えて描かなかったという例がある。
外国人に渡るであろう風景画に、幕府が慶賀に「圧力」をかけたのか、慶賀が忖度して描かなかったのか不明だが、シーボルト事件を経験している慶賀だから、恐ろしくて描けなかったのではなかったか?
川原慶賀はもと、絵師で、植物の絵を得意としていたが、シーボルトの目に留まり、彼が日本の珍しい植物を蒐集し、出島に植物園をつくるなどしていたから、慶賀に「ボタニカルアート」つまり植物精密画を描くことを依頼した。
写真のない当時、動植物を広く紹介するには精密で正確な、標本に値する絵が不可欠であり、シーボルトが慶賀の才能を見込んで、正しいボタニカルアートを習得させたのだった。
慶賀の技術の取得は目覚ましく、みるみるうちに素晴らしい標本画を生み出した。
シーボルトは日本文化のすばらしさをヨーロッパに持ち帰り、広く知らしめたいという純粋な衝動に駆られていた。
動植物はもとより、風俗や街並み、風景も慶賀に描かせ、本にまとめることにしたのである。
シーボルトの興味は日本の地理にも及び、幕府天文方の高橋景保の屋敷で伊能図(日本全図)を目にした彼はその精密さに感動し、懇願して写しを手に入れるのだった。
当時、日本全図は門外不出の極秘文書であり、ことに外国に知れることを幕府は恐れたのだった。
この一件が間宮林蔵の密告によって幕府の知れるところとなって、景保は捕縛、獄死となり、シーボルトは国外追放・再入国不可の裁きを受けたのである(シーボルト事件)。

シーボルト事件にまで発展した情報漏れは、精密な地図、精密な絵や文書がいかに為政者にとって大事なものなのかを教えてくれる。
言い換えれば、そういった絵や図面を描ける人物は政治に利用されてきたのである。
写真がない時代はそれしかないのである。

隠密はなにも忍者だけの仕事ではない。
専門技術を持った人材が、時の為政者に囲われ、利用された歴史があるのだった。
鍵を作る職人、城郭建築の大工、石組み、治水、山師などさまざまな特殊技能者が活躍したのだろう。