コロナ禍で職を失った人が多いそうだ。
もともと不安定な立場だった非正規労働者が、夜の露頭で迷っている。
施(ほどこ)しの行列に並んでいる。

カール・マルクスは『資本論』において、労働者が報われる社会を夢見た。
ジョン・ケインズは機械化によって労働時間は短縮され、労働者は解放され、余暇に時間を割くような余裕ある人間らしい暮らしが到来するだろうと未来を予測した。

しかしどうだ?
機械化は進み、われわれは未曽有の便利な生活を手にしたけれども、労働時間は減るばかりか、サービス残業や過労死が増える一方だ。
労働に対する賃金も上がらない。
余暇を楽しむほどの金銭的、時間的余裕などない。

マルクスもケインズも何か見落としているのだ。
自由資本主義経済において、労働市場は身の切り売り、時間の切り売りである。
労働者は、消費者でもあるわけで、賃金の可処分所得で生きている。
その賃金は「労働の対価」と教科書的に言われているものの、物の価値、それを作り出す労働価値とは乖離している。
モノの値段は、消費者が決めるのだから、労働の対価と乖離していくのは自明である。
消費者はより安く買い求め、売り手の資本家も競争に勝つために価格を下げる。
つまり労働者の賃金を削って、価格に乗る人件費を抑制して安くするしかない。
価格競争は、労働者賃金の安い外国との闘いになってしまうが、最初は品質の良い国産で勝負しうるも、外国も品質を上げてくる、おまけに価格は安いままだから、国内企業はどんどん負けていくのだ。

ここで「労働者=消費者」という等式を思い出してほしい。
労働者は賃金アップを願う一方で、安い品物を欲する消費者なのだった。
いや、賃金が低いから、安い物しか買えないのかもしれない。
いずれにしろ、労働者階級の経済的浮上は見込めない仕組みになっているのだ。

マルクスやケインズはここを見定められなかった。
資本家は、カネを労働者や下の階級に流さない。
富の再配分は、国家なりが強制力を持ってなすか、ケインズのいう「公共事業」で金を市中に引き出すかしないといけないのだが、いずれの方法もうまくいかなかったことがわかっている。

セーフティーネットとかベーシックインカム制度などの生活扶助が行政によって整備されることが望まれるが、懸念は、ギャンブル依存やアルコール依存症の者への配慮だ。
カネを与えるだけではなく、這い上がる援助、監視も必要だと思うのだ。
人はあまねく社会に参加せねばならない。
社会復帰こそが、セーフティーネットやベーシックインカムの目的なのであって、それで満足して生産性のない生活を続けられることを我々は望んでいない。
「おもらい」精神で生きていけるほど社会は甘くないということを、われわれも知らねばならない。
それでも障害や健康不安で、社会で積極的に働けない人々もいるだろう。
アベノミクス以来の「自助、共助、公助」の順番は問われずに、いきなり公助の必要な人もいるのだから。
なんでもかんでも「自助」からという厳しさは、却って、弱者を追い込むものだ。

これからの社会は、持つ者と持たざる者が大きく隔たる「階級社会」になるだろう。
昔の「労働者階級」と「資本家階級」よりも峻烈であるはずだ。
コロナ対策で垂れ流された莫大な資金が、一握りの金持ちに流れて行って、株価は空前の高騰を見せ、持たない者(カネだけでなく、仕事も)は、もはや不可逆的に貧困のどん底を這うのだった。
無縁仏として野垂れ死にすることが、かなり現実的になったとき、はたして宗教はよりどころとなってくれるのだろうか?

じっと手を見る。