豊田章男トヨタ社長が昨年からぶちあげている静岡県裾野市の「スマートシティ」の地鎮祭が2月23日(富士山の日)に執り行われたようだ。
すべての車や機械類がインターネットにつながり、人は何もしなくても、いや好きなことをするだけで生きていけるそうだ。
つまりはクリエイティブな労働のみに人は従事し、運んだり、運転したり、物を作ったりという労働はすべて機械がするのである。
トマス・モアの『ユートピア』の再現か?
『ユートピア』では「社会主義」の萌芽が見られた。
豊田社長は「民主主義を制限」してでも、多様性を重んじ、平均化にこだわらないという「問題発言」をした(報道ステーションでの富川氏との対談)。
豊田氏は民主主義では「決まるものも決まらない」というジレンマを口にしたのである。
この「スマートシティ」では違ったガバナンスが求められるということらしい。
工場跡地という「私有地」で豊田社長の構想を思いっきり提案したいという意向であり、成長し続ける街づくりを目指しているのだった。
この小さな「王国」には、当初、三百人余りの住民が募集されるそうだ。
構想では、発明家やクリエイター、エンジニアという職種の家族が選ばれるらしい。
そして彼らが街づくりに参画して、発展していくというのである。

豊田自動織機から始まった自動車会社がついに、街づくりに手を出したわけだ。
愛知県に「豊田市」という工場城下町を作ったトヨタ自動車である。
情報通信技術(IT)や人工知能(AI)が使える状況になり、また、環境に負荷のかかる内燃機関を動力にした自動車がEV化されようとしているこんにち、「機が熟した」と豊田社長は行動に出たのであろう。
新型コロナ禍がさらにこの構想を加速したともいえそうだ。
人は出歩かなくても、居ながらにして仕事に打ち込み、家族と団らんし、買い物ができるわけだから。

さてバラ色の「スマートシティ」だが、果たしてそんなに未来は明るいのだろうか?
まず、豊田社長の構想には「人は善人である」という前提で成り立っているように思える。
少なくとも「スマートシティ」に招聘される住人には悪人がいないと思っているらしい。
健全な競争が「シティ」の中でおこなわれるだろうが、私権の領域をどのように守るのだろうか?
大きな「トヨタ」という企業の中で、ワンマンな社長が切り盛りするのとではわけが違う。
「スマートシティ」の住人は市民であり、考え方も、性格もさまざまだろう。
住人の子供たちがみな判を押したように一定の基準に育つとも限らない。
私は、人は「性悪説」に立つと考える方なので、豊田社長のような「能天気」な発想を持たない。
学校や病院は業として自由に設立できるから、スマートシティにも備えられるだろうが、警察や消防などの治安維持に関するものは裾野市にお願いするのだろうか?
ちょっとしたいざこざ、事故、火災などに対応するものを、スマートシティの構想に盛り込まれているのかどうか私は知らない。
スマートシティの中ですべてが完結するという理想郷は、ともすれば閉鎖的で、犯罪がおこなわれてももみ消されたりするのではなかろうか?
私の杞憂に過ぎないのかもしれない。
しかし、豊田社長のスマートシティはいいことばかりを喧伝するものの、どこか嘘くさく、北朝鮮のような「キム王朝」が出現するのではないだろうかと思わせるのだ。
やる前から批判するのはよくないかもしれない。
お手並み拝見といきたいところだ。
トヨタが「実験都市」と標榜するも、そこには血の通った人々が生活するのである。
子供を産み育て、また老いて死んでいく街なのである。
絵に描いたモチにならないように願うばかりだ。
また選ばれた特権階級の人々が住む、閉鎖された街にならないように願いたい。
スマートシティが新たな差別を産まないとも限らないからだ。
もっと言うならば、スマートシティがガラパゴス化して、周囲の都市が発展し、スマートシティ自体が空洞化してゴーストタウンになりはしないかと老婆心ながら心配するのだ。
富士山麓には魔物が住むのである。
オウム真理教が上九一色村にサティアンという王国を築いて滅びたことを忘れてはいけない。