外交において、もっとも避けなければならないことは紛争を惹起するようなきっかけを作ること、および戦争に至るような伏線を敷いてしまうことである。

クラウゼヴィッツの『戦争論』の「第八篇 戦争計画」において、冗長な説明がなされているが、つまるところ軍人は戦争を企図するにあたり、勝利を目指してあらゆる知恵を絞り、軍備を整え、もっともふさわしい時宜を得た攻撃で先制することに尽きるとする。

しかし我々日本人は、平和憲法(日本国憲法)を掲げて、戦争を永久に放棄したのであるから、クラウゼヴィッツの立場に立って物事を考えてはならないのである。
もはや日本には職業軍人はいないというべきだからだ。

とはいえ、日本の周辺国において「戦争を放棄した国家」はなく、好むと好まざるにかかわらず我が国は戦闘に引き込まれる懸念は残るのである。

そこで「情勢論」が頭をもたげてくるのであった。
世界情勢に応じて、「平和維持」のために「方便」を用いていくことである。
それが「解釈改憲」であったり「自衛戦力の保有」であるし、「日米安全保障条約」やそれに基づく「沖縄基地問題」であることは、日本人ならおなじみの「方便」であろう。

対して「非核三原則(持たない、作らない、持ち込ませない)」を、世界唯一の被爆国として日本が掲げて実行することも、我々は知っている。
ところが国際社会において日本は核保有国とそうでない国々との間を取り持って、究極は「非核」に誘導したいと幾度も言い訳をしつつ、結局のところ核不拡散条約には批准せずアメリカの顔色を窺っている。
これは「情勢論」の悪い運用と言わざるを得ない。

いくら「情勢」をうかがうにしても、我が国の堅持すべき原則を押し出しても良いはずだ。
国際社会で日本が「非核」の原理を推し進める立場を強力に打ち出しても、アメリカの顔に泥を塗ることにはならない。
いくら日米安全保障条約が日米間に結ばれていても、もとは「押し付け憲法」で「戦争放棄」の原理原則を押し付けたのはほかならぬアメリカではなかったか?
この期に及んで、何を遠慮することがあろうか。
安保条約を堅持しつつ、非核の道を力強く先頭を切って歩む我が国の姿を、私は見たい。
ここに「情勢論」の入る余地はないとまで思うのだ。

核の抑止力、核の傘…などの言葉が躍る国際社会において、もはやそんな言葉は死語にしたい。
外交とは、こんにち最も人智が問われる政治行為だと私は思う。
幾多の戦争を経験してきた我々は、新しい『戦争論』が描けると信じたい。
それは、とりもなおさず「戦争回避論」であるべきだ。
なぜなら、もし今後「世界大戦級」の戦争が起これば間違いなく人類は滅ぶだろうからだ。
紛争は絶えまなく地球上のあちこちで起こるだろう。
人の欲望が、誤解が、紛争を避けさせないからだ。
しかし、こういった「紛争」を、国際社会が仲裁し、裁判し、公平に解決させるようにクールダウンさせることが可能だと信じたい。
ところが「世界大戦」となると地球を二分し、もはや容易には解決し得ないことになる。
小さな焚火が広大な山火事になる前に、われわれは知恵を用いなければならないし、また過去の人々よりも多くの経験を積んでいるはずなのだ。

戦争に至らない外交、言うなれば「不戦争計画」とは日ごろの外交手腕にかかっている。
国際紛争のタネは、経済の不均衡(貿易の不平等)、植民地的政策の押し付けや貸付、文化の否定や偏見、不幸な過去の蒸し返し、自国主義など挙げればきりがないが、相手の立場に立つという視点が加わればずいぶん楽になるはずだ。
たとえば大韓民国と我が国の関係でも、政治的にはなかなか折り合いをつけるのが難しいが、民間レベルではそんなにぎくしゃくしているようには思えない。
韓流スターと日本人ファンの交流は盛んであるし、アニメやグルメなどの文化交流も盛んだと聞いている。
確かに、報道で反日、嫌韓を煽ると、両国の世論も扇動されるけれども、やはりそこは隣人であり、じきに矛を収めるのが民の力だ。
インターネット社会が成熟したこんにち、われわれの世界観は一昔前のそれとはずいぶん違うことに気づく。
中韓は互いに近いし、たとえ遠いヨーロッパの人々でさえ、身近に感じるのではないか?

国際問題では「主権の侵犯」が取りざたされる。
領土・領海問題だ。
竹島問題、尖閣諸島問題、北方領土問題がそうである。
最後に残る「紛争のタネ」は国境問題なのである。
どこの国でもそうである。
実力をもって支配する(実効支配)ことが領有のエビデンス(証拠)になるというのが国際法の裁き方だ。
ゆえに、竹島は現在韓国領になるし、北方領土はロシアの実効支配に属している。
尖閣諸島はかろうじて日本が占有していることになっているが、中国海警の巡視船の侵犯が絶えない。
中国が「実効支配」をもくろんでの侵犯なのであろう。
この微妙なバランスは今後も外交カードとして残るだろう。
まさに「情勢論」の使われどころだ。

国際問題では「現状の変更」を危惧する申し入れがたびたびなされる。
中国の南沙・西沙諸島の実効支配が、日米からは「現状の変更」だと糾弾されている。
本来はベトナムやフィリピンとの争いなのだが、国際社会の代表という立場から日米が中国に意見しているのだった。
実はベトナムもフィリピンも対中関係を悪化させたくないという思惑があり、日米の糾弾姿勢と温度差があるのである。
ベトナムはベトナム戦争終結の恩恵を中国から得ており、また国境を接していることから対中姿勢は柔らかい。
さらにベトナムは、アメリカには過去の戦争の恨みもあって、簡単にはアメリカになびきにくいこともある。
フィリピンは中国から開発の手助けを得ており、札束で顔を叩かれているドゥテルデ大統領が領土問題から退いた形だ。

かように国際情勢は日ごとに変化していっている。
新型コロナウィルスによる、戦争とはまた違った災難が世界を席巻し、ワクチン争奪戦という今までにない争いが渦巻いている。
またもや外交に「情勢論」が欠かせない状況になってきた。
各国の政治家の手腕、議会の手腕が問われる外交の時代が訪れた。
武力による威嚇よりも、経済力や商才、物流と情報で支配したり、されたり、影響を及ぼしたりする事例が増えるだろう。
ある意味それは、不満もあるが「平和な社会」の具現なのだ。
万人が満足する平和は、それこそ「ユートピア」であり、おそらくそれでも人々は「満足しない」のではないかと私は思うのだ。
「満足しない」から我々に明日があるのだ。