「たとえば、遠隔の地の旅行記を読んで、かの地の状況をありありと頭に思い浮かべれば、どんなに出不精な、血のめぐりのわるい精神のひとでも、わが家の暖炉のほとりで、尽きざる探検の快味を味わい得るであろうことは疑いを容れないし、また、パリから一歩も離れず、セエヌ河の船中に設けられたヴィジェ浴場にただ浸かりに行くだけでも海水浴に行ったと同じ幸福な感銘を受けることが可能であるのは、やはり疑いを容れないのである」(『さかしま』ユイスマンス:澁澤龍彦訳)

主人公デ・ゼッサントが放蕩と辛苦の末、たどり着いた境地が、居ながらにして疑似体験をすることに心血を注ぐことだった。
そのためには「本物を知る」必要があり、それまでの彼の経験、研ぎ澄まされた感覚が「優れた疑似」を創造することになるという。
つまりは「自己満足」に過ぎないのだが、その質(しつ)はあらゆる知識と批評を集めて取捨選択され、濾し出された渾身の一滴という自負である。
誰が何と言おうと、自分の至福に間違いはないのである。
傍(はた)から見れば彼の脳内世界が、彼を慰撫(いぶ)しているだけなのだが…

デ・ゼッサントは病んでいた。
健啖に耐える胃腸はもはや持っていない。
それどころか神経は過敏になりすぎて、すべてが雑音に聞こえ、ある時は発作を惹起させるのである。
人と会うことはもっとも彼を苦しめる。

冒頭に引用した文のように、デ・ゼッサントはもはや旅をすることすら厭うのである。
彼は想像の旅で十分だというが、そのために自分の屋敷の中で、集めるだけ集めた最高の材料で疑似体験を演出するのだった。
虚しさを感じないのだろうか?
感じたくないがために、自分の能力を高めるのだった。
彼は、たいへんもろくなってしまっている。そのことに気づいているのかいないのかわからないが、自分の世界を充実ならしめんと資力をつぎ込み、他者を批判し、我こそが孤高の選別者であると妄想しているのだった。
蕩尽(とうじん)の末、ついにデ・ゼッサントは体を壊し、自ら作り上げた世界をも手放さねばならなくなる。
その長い道のりを描いた小説が『さかしま』なのだった。
私はこの退屈な小説が好きである。
デ・ゼッサントに自分を重ねているからだろうか?