私の読書のやり方は、少し変わっているのかもしれない。
速読(昔に興味があってやってみたが挫折した)は絶対にしない。
ただし「ななめ読み」は、ハウツーものの本の場合やることもある。
RaspberryPiやPythonの手引書がそうだった。

ゆえに、私は遅読である。一日2~3ページしか進まないときも多い。
こればかりは、ひとにとやかく言われても直す気はない。

それでどうしているかというと、「並行読み」という乱読の読み方である。
何冊も同時に読むのである。
この場合、似たような本を「並行」させると混乱するので、まったく異なる内容の本を取り合わせる。
今やっているのは、堀田善衛の『インドで考えた』(読了)と笹沢左保の『木枯し紋次郎』、徳冨蘆花の『不如帰(ほととぎす)』で、堀田の関連から椎名誠の『インドでわしも考えた』(読了)に移って、さらに堀田が前掲書の中でたびたび引用していたネルーの『インドの発見 上・下』(絶版)を古本で取り寄せて今取り掛かっている。

このように、ある本の内容から、その著者が過去に読んだと思われる文献に、私も手を出したくなることがよくある。
そうやって、蔵書が増えていくのである。
たいていは、絶版になっているので、古書のネットワークやアマゾンの古書店に当たって、妥当な値段であれば購入するのだった。
『カンタベリー物語』(チョーサー)、『パンセ』(パスカル)、『禁色』(三島由紀夫)、『モンテクリスト伯』(デュマ)、『白鯨』(メルヴィル)、『デカメロン』(ボッカチオ)、『天文対話』(ガリレオ)、『カザノヴァ回想録』(カザノヴァ)などはすべて古本である。
日本の明治大正期の文学作品は幸いにも、亡き母が遺してくれていたのでそのまま受け継いだ。
父は、宇能鴻一郎のポルノ、野坂昭如『エロ事師』、黒岩重吾の赤線小説、松本清張のミステリーなどをたくさん遺してくれた。

古典は洋の東西を問わず、紐解くべきだと、村上春樹氏が言っていたと思う。
『ノルウェイの森』で「時の洗礼を受けていない本を読むな」と「永沢」に言わせた村上氏である。
つまり、現代にまで残った古典は、残るべき意味、強さがあるのだろうし、それを知らないのは非常にもったいないことなのだ。

だから、私は、自分より若い人が書いたものをあまり読みたくない。
変なプライドがあるのだ。
「なにゆえ、若造に自分が教えを乞わねばならんのか?」という、なんとも偏狭な思いがある。
ただし、科学、数学などは例外的に、私は、新しい人が書いた、新しい知識を読んでいる。
科学は新しいものほど、「良い」のである。
もちろん古い科学でも、確立されて覆らなかった「不磨の大典」のような書物は言うに及ばないが。
詳しく言えば、若い人が書いた「文学」は、賞を取ったとしても手に取りたくはないのである。
その作品が何世紀も読み継がれるのなら、価値もあるだろうが、その時は私は生きちゃいない。
よって、戦後文学でも私より先輩がものされたものを読むという「篩(ふるい)」を私は大事にしている。
そうでもしないと、なんぼでも本が増えてしまうでしょう?
若い人は、若い人で文化を創っていってください。私には関係がない。

本を選ぶ基準を先に触れてしまったが、もうひとつ、本は安くなくてはいけないと私は思っている。
ケチ臭いが、私も自由になる金がそう多くはないので、あんまり高い本は買えない。
ゆえに文庫、新書から選ばせてもらう。
それ以外は、残念ながら値段で却下となる。
作家や出版社には悪いが、古本で安く手に入るならばそちらで買うことにしている。
カバーや帯なんてなくていいから。
ページが折れてたり、ヤケがあるくらいが、雰囲気があっていい。中に書き込みがあっても、前の所有者の呼吸が感じられて好ましい。
すると、もう鬼籍に入られた作家さんの作品なら、古本で手に入れても罪悪感もない。
だから私より先輩の作品を手に取るほうが多くなるのだった。
「青空文庫」で読むこともしばしばある。どうしても本が手に入らないものもあるからだ。
「青空文庫」に入っている作品は、著作権の切れているものばかりだから、私の篩にかかっている。

まとめると、私の本の選び方は、
・私より先輩が書いた作品やドキュメンタリーである(科学系は除く)
・価格が安い、文庫か新書であること。古本が安いのならそっちを選択
・作家が作品を書くときに下地にした文献を当たって味わう(書評の代わりに利用)
・古典は大切だ。

私が絶対に手に取らない本が、自己啓発本や金儲けの本である。
こんなものを買えば、彼らに印税を与えているだけで、どぶに金を捨てるようなものだ。
自分の生きざまなど、人に指図される筋合いはないのである。
カネのことは言うな。福沢諭吉か二宮尊徳か渋沢栄一の本でも読んでおけ。
それで充分である。
人生に悩んだら、先輩諸氏の文学、古典作品に範を求めなさい。絶対見つかるはずだ。
正岡子規の一句に導かれることもあるだろうし、西行(さいぎょう)の一首に覚悟が定まることもある。
読書とはそういうものだ。