このあいだ、芥川賞と直木賞の発表がありました。
若者の「活字離れ」が叫ばれて久しいけれど、まだまだ文学の世界は強靭な支持を得ているようです。
ネット社会に目を向けても、「ラノベ(ライトノベル)」は月に何百もの新作が発表され、「ライト」と言いながらかなりの長編もあるようで、それなりに読者を獲得しているから活況なのでしょう。
カドカワ系の「カクヨム」などの発表の場では、盛んにみなさん発表されています。

「ライト」が単に「軽い」という表面的な意味ではなく、「軽く読める」ことが大切で、「軽い」からといって内容が「軽薄」であると短絡的に評してはいけないらしい。
ネット民たちは、すき間時間を有効利用するので、読解に時間を割けられないのです。
濃く深い内容をライトに、読者を充足させる力が作家に求められるのでしょう。

伝統的な読書家は、年齢を問わず(やや高年齢に偏っているが)存在しており、本屋さんもそういう人々を大切にされています。
個人の本屋さんが次々に店を閉めている昨今、頑なに、細々と独自性を模索しながら本屋を営んでいる、自らも本好きを標榜している店主さんもいらっしゃいます。
中堅どころの大型書店でさえ、売り場を工夫し、店員に本のエキスパートを採用し、ポップを作らせ、おすすめを買い手にアピールすることが日常的になっています。
Amazonでも本の取り扱いは、かなりの比率を占めるそうです。
Amazonのような通販サイトは「レビュー」が書評を担っていて、書き込む方もかなりの読書家や専門家がいて、選ぶ側からすると、参考にしないわけにはいきません。
手軽さゆえに、本屋さんに足を運ばなくなる私ですが、一方で、この世から町の本屋さんが無くなることをさびしく思っています。私も勝手ですね。

世の中が目まぐるしく変わっていきますが、本は愛され続けるのでしょう。
読む人がいる限り、書く人も後を絶ちません。
絵を描く、音楽を発表するなどと同列に、文章を編むという創作は、人間の宝ですから、今後も絶えることは無いでしょう。
「承認要求」や「共感」が、こういった創作活動を後押ししているのだと思います。

「にんげんだもの」(相田みつを)
を、ふと思い浮かべました。
相田は苦労の人ではあるのだけれど、彼の詩は「俗っぽく」見えて、私は好きになれないのです。
しかし「にんげんだもの」にはある種の共感を覚えます。
奥本大三郎(フランス文学者)は、相田の書に「上手く書けるのにわざと下手に書くような人は、何か魂胆がある」などと手厳しい批評を加えています。
実は、私も同感なんです。相田の書や詩が好きになれないのは、その「おもねる」ような書法にあるように感ぜられるんです。
パソナの取締役の南部靖之氏が座右の銘に相田の「そんかとくか人間のものさし、うそかまことか仏さまのものさし」を選んでいますが、「俗っぽい人は俗っぽい言葉を選ぶなぁ」と正直、私は思いました。
悪名高い竹中平蔵も顧問を務める「パソナグループ」です。
南部氏は「フリーターなら、本当の意味で終身雇用が可能だ。フリーターこそ安定した働き方」だと豪語、竹中とともに、こんにちまでも不安定な労働者階級「非正規雇用」を推し進めてきたのです。

このような、弱者の気持ちをわからない「最低の人間」が選ぶ「相田みつを」を好きになれないのは、相田が選ぶ言葉が「人の心の底の劣等感をごまかすような文句も嫌いだ」と奥本大三郎が言うように、私も澄んだ心で好きになれないからです。
相田みつをがそのような人であると、私が言っているのではありません。
相田の言葉を崇拝するひとの心に、偽善や欺瞞が見え隠れするからでしょう。

立松和平は相田のファンだったそうですが、彼は、素直に相田の心に訪ねています。
相田の言葉は平易です。
だから、あらゆるランクの人々の心を打つ。
相田の「狡(こす)い」ところなんです。意図しているのかどうかは、私にはわかりませんよ。

日ごろ、ビジネス書ぐらいしか読まない俗物にも、相田の言葉や、ヘタウマな文字は「イイネ」を与えてしまう。
奥本氏などは、それが見え透いていると批判している。
「いやらしい」書家、詩人だと。

私もそこまで、もう亡くなった人に言うことはしませんが、好きではないという表明はしておきます。

創作、殊に「文章を編む」創作は、詩文や字体にも気持ちが宿ります。
相田みつをを反面教師として私も創作していきます。