表題のような言葉について、現代日本語では区別されているだろうか?
私は「否」である。
どちらも区別はしていない。

微妙なニュアンスの違いはあるかもしれない。しかしそれを意識して使い分けているとか、他人が使っているのを聞いて違和感を覚えたりすることはまずない。

「たい」がつく場合、おそらく主観が表されているのだと思う。
自分が重い物を持って実際に「重たい」と感じるとか、「眠たい」も「だから眠りたい」という希望が含まれる。
つまり「たい」には実感がこもっている。

いっぽうで「重い」は推量を含めて、実際に重いかどうかは別にして「重そうな状態」を一般に表現しているのではないだろうか。

品詞からすればいずれも形容詞となろう。
おもしろいことに、「重い」の対語にあたる「軽い」には「軽たい」という用法がない。
これはどういうことだろうか?
「重い」あるいは「重たい」には広く深い意味が、日本人にはあるようだ。
病気などで「症状が重い」や「症状が重たい」と使っても、「症状が軽い」とは言うが「症状が軽たい」とは言わないのは、その価値がないからだ。
「軽い病状」に対して、その話者が外に対してそれ以上の気持ちを訴える必要もなく、医師が患者に伝える場合でも「軽い」とさらりと言うだけで足りる。
ところが「重たい」には、深刻な含みがあるのである。
「気分が重たい」は「気分が重い」と言い換えられるし、そう言い換えて「重さ」の微妙な軽重を表現できる。いっぽうで「軽さ」の微妙な軽重を問うたり、表現する場面はあまり要請がない。
「重い」や「重たい」にはネガティブなニュアンスがあり、それは「どの程度」かが重要になってきて、話者や主観者はそのニュアンスを表現したいのである。
いっぽうで、「軽い」にはポジティブな、あるいは文字通りのイメージであって、「軽い」と表現するだけで足りているのであろう。

もう少し違いを比べてみよう。
「重い罪」を「重たい罪」とは、あまり言わない。無論「重たい罪」と言ってもそんなにおかしくもないが。
書き言葉ではそんな表現をしなくても、話し言葉では、まあまああるのではなかろうか?
関西では「温い(ぬくい)」と「温たい(ぬくたい)」という慣用表現がある。若い人が良く使う。

「重い言葉」と「重たい言葉」はほぼ同じ比率で使われていて、使い分けは見られない。
「重そう」と「重たそう」も、実感ではなく、想像で表現する場合も使い分けは見られない。
もう少し詳しくみると「重そう」は実際にその物を持ってみて「軽かった」場合であり、「重たそう」はほぼ、見た目での想像だ。

よく物理的に「重さ」を表現するなら、単に「重い」であり、感情を含ませる場合「重たい」になると説明している人がいるが、おおむねそうなんだろうと私も同意する。

驚いたことに、けっこうな人が、「この違いはなんだ?」と疑問に思っていることだった。
日常で、些細なことに疑問を持つことは良いことだと思う。